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筑後国一宮・高良大社の御祭神・玉垂命とは誰か?物部氏か磐井か!?

高良大社3の鳥居石碑 歴史探求
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久留米市に住んでいる者として、以前から、岩戸山古墳についてや磐井の乱、磐井一族について調べてきました。

 

 

岩戸山古墳からも近く、同じく筑後国には、筑後一宮・高良大社が鎮座しています。

 

 

もし仮に磐井が当時、筑紫君=筑紫の王であったのなら、高良大社との関係も問題になってきます。
現在、高良大社の御祭神・高良玉垂命には諸説ありますが、物部氏ともされています。
しかし、それは、磐井の乱で磐井一族が物部氏に敗れたからともいえます。

高良大社の玉垂命とは、磐井だったのでしょうか?

一体、高良大社の神は、誰であったのか?

高良大社を探ることで、当時の磐井の権力、磐井の乱の真の意味、また当時の古代日本の勢力図なども垣間見えるのではないかと考えます。

このような観点で、今回は、そんな高良大社の真の神について考察していきます。

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高良大社の玉垂命は誰なのか?磐井か物部氏か?

高良大社は、4世紀末から5世紀前半に建立されたと伝えられています。
磐井の乱は527年で6世紀前半ですから、磐井の乱が起こる前から高良大社はあったわけです。
このことから、もし磐井が当時筑紫君であったならば、高良大社との関係性も深いはずと推測できます。
ただ、高良大社の歴史には、一切、磐井の名は出てこず、物部氏との関係が深い記述しかありません。

磐井の乱は高良大社と同じ場所で起きている

磐井の乱の戦闘地域は、御井郡であります。
現在、高良大社が鎮座している周辺で、磐井vs物部氏の戦が起きているのです。
日本書紀には、以下のように記されています。

528年の冬、11月11日、大将軍・物部麁鹿火(もののべのあらかい)は自ら、賊軍の長の磐井と筑紫の御井郡で交戦した。軍旗や軍鼓が向き合い、砂埃が入り乱れた。この戦いがすべてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをした。物部麁鹿火はついに磐井を斬って、境を定めた。

戦に勝った物部氏は、継体天皇から筑紫以西の統治を委任されています。
この日本書紀の記述からわかることは、それまでは磐井が筑紫を統治していたこと、磐井の乱のあと磐井から物部氏へ権力がうつったことです。
また、高良大社の祭神・高良玉垂命は、国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』で、朝廷から正一位を授けられたとされていますが、もちろんこの時の高良大社の祭神・高良玉垂命が物部氏であるなら、当然といえば当然です。
さらに、興味深い逸話として、このようなものがあります。

高良玉垂宮の縁起である『高良玉垂宮神秘書』という本の中に、こういうエピソードが書かれています。

高良大明神は鎮座の場所を探して、筑後地方をあちらこちら回っておられました。
大川の港(現・大川市)から上陸して、瀬高のイチガウラという村にたどり着かれて、遥かに北の方角を眺めておりますと、遠くの丘の上に何やら敵らしき人影がたくさん見えるではありませんか。
神様は、自分がこれから進んでいこうとするのを邪魔しようとしているのではないかと驚かれ、さっそく見張りのカラス(ミサキ鳥)を飛ばして調べさせました。
カラスはその丘に飛んでいき、その人物をくちばしでつついてみて、それが石人であることがわかったのです。
ほどなくして戻ってきたカラスは「あれは敵ではなく、ヒトカタ(人形)です」と告げたので、神様は安心して北へ向かって進まれ、八女丘陵をこえて久留米の高良山にお着きになられ、そこを鎮座の場所に決められました。

磐井の岩戸山古墳、祖父の石人山古墳にある石人を表わしています。
この逸話を読み解くと、同じような史実が明らかになります。
「もともと筑後地方には磐井一族がいたが、磐井の乱で滅ぼした後は、もはやヒトカタ(人形)にすぎない。物部氏は、安心して八女丘陵を超えて、高良山に玉垂命と名乗り鎮座した」と。

高良大社の元々の御祭神・高木神が磐井か?

高良山には、もともと高木神が鎮座していたという話があります。
ある時、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出ます。
高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説があるのです。
ずいぶん、堂々とした乗っ取り劇です。
この高木神を磐井として、玉垂命を物部氏とすると、磐井の乱後の権力の委譲と辻褄があってきます。
この高良大社の逸話でも、磐井が物部氏へ神(王)の座を譲ったと読み取れます。
高良山という名前については、もともと高牟礼山と呼んでいたという記述があります。しかし、この『もともと』がいつの頃を指すのか曖昧です。
名古屋に高牟神社がありますが、高牟神社は物部氏の鉾を納めていた武器庫であったことで有名です。
すべて昔といえば昔の話ですから、年代の揺れが生じているのでしょう。
間違えないようにしたいのは、高牟は物部氏との関係を匂わせますから、磐井の乱のあとの話だということです。
現在、もともとの高良大社の氏神だった高木神は、麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座しているとのことです。
この高木神社を調べれば、もしかしたら磐井にたどり着ける可能性があります。

まとめ

今回は、高良大社の御祭神・玉垂命が誰なのかを考察してみました。

磐井の乱までは、磐井が筑紫を統治していたとするなら、高良大社の元々の神も磐井と関係があったと推測します。
さらにいうと、筑紫の王は磐井であったのですから、高良大社の神も磐井であった可能性が高いと思われます。
しかし、磐井の乱のあと、物部氏が筑紫を統治します。
このことで、高良大社の御祭神が、高良玉垂命(物部氏)に変化した可能性が高いのではないでしょうか。
ひとまず麓に下ろされた高木神社を訪問してみましょう。

 

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