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天草四郎って何者?写真でつづる原城跡と島原の乱の謎!

天草四郎像 歴史探求
この記事は約5分で読めます。

なぜか中学生の頃から、天草四郎のことが気になっていました。

きっかけは思い出せませんが、美輪明宏さんではありませんが、もしかしたら生まれ変わりなんじゃないかとずっと思っていました。

ですから、この原城跡は、前世最後の地になります。

ちょっと鬼門のような気がして、なかなか行けずにいましたが、ようやく行ってきました。

何だか故郷に帰ってきたかのような感覚がありました。

今回は、そんな原城跡天草四郎の謎に迫りたいと思います。

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原城跡とは

島原半島にあります原城は、島原の乱の舞台となった城です。
今は跡地だけが残っています。

前回、雲仙温泉の地獄を紹介しました。

雲仙地獄から車で約30分くらいで着きます。

原城跡は、島原半島の下・海岸沿いにあります。

ちなみに、天草四郎が生まれた場所は、対岸にあります現・熊本県上天草市大矢野町になります。

その中間に、湯島といいまして、島原の乱の前、島原と天草の一揆首謀者たちが作戦会議をした通称談合島があります。

現在では島原は長崎県、天草は熊本県とわかれていますが、当時は有明海を挟んだ周辺が同じ文化圏にあったのだろうと思います。

天草四郎も、宇土から長崎のカトリック学校に通っています。

上記のような経路ではなく、完全な航路だったのかもしれません。

駐車場

原城温泉・真砂とあります。
ここの駐車場(無料です)に止めて、海岸沿いを歩くコースがオススメです。

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写真でつづる天草四郎と原城跡

駐車場から原城跡までは大体15分くらいかかります。

原城跡までの道中

一本道ですし、案内が出ていますから、迷うことはありません。

原城跡徒歩ルート道


原城跡徒歩ルート1

左手には海が広がっています。


原城跡海

遠くに天草が見えます。

約400年前、在りし日の天草四郎や一揆に立ち上がった3万人ものキリシタンや百姓や浪人たちの気持ちを潮風と共に感じながら、原城跡へ向かって歩きます。


海岸沿いが終わると、次にちょっと坂道を上っていく感じになります。

原城跡という言葉のの方に注目すると、大阪城や名古屋城などの普通のお城を思い浮かべてしまいがちですが、原城は、城ではなく「跡」なのです。

実際行ってみるとわかりますが、ほぼ田んぼと畑が広がっていて、地元の人が普通に農作業をしています。

観光地という雰囲気が全くしないから、少し不安になるかもしれません。
普通の田舎道を歩いている感じが数分続きますが、大丈夫です。

原城跡石碑

丘のてっぺんが、原城跡です。

そこにも駐車場がありまして、ガイドさんがいました。

美術館でよくあるイヤホン付きの案内レコーダーのようなものもあるようでした。

島原の乱をよく知らない場合は、ガイドさんに頼んだ方がいいかもしれません。

キリシタン慰霊碑

原城跡十字架

島原の乱で散っていったキリシタン達の慰霊碑でしょうか。

天草四郎像

天草四郎像

天草四郎の像がありました。

天草四郎の墓

原城跡天草四郎案内版

お墓がありました。

天草四郎墓

お供え物もありました。
上記の案内板を見ると、もともと西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したそうです。

3体の像

原城跡の3人

広場の端っこの方に、三人の方が、海(天草方面)を見つめている小さな像がありました。

誰なのか判然としませんが、多分、天草四郎美輪明宏さんかもしれません。

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天草四郎と島原の乱

天草四郎とは

まず天草四郎について考察してみましょう。

本名

益田四郎です。

天草四郎とイエス・キリスト

何故、四郎は、たった16歳でありながら、3万人もの大軍を率いることができたのでしょうか。

そこには、島原の乱がキリシタン一揆ということが大いに関係していると思われます。

つまり四郎をイエス・キリストの生まれ変わりという設定にしたことです。

四郎には、イエス・キリストと同じような数々の奇跡を起こした逸話があります。

父の存在

四郎の父であった益田好次は小西家の文官でした。

いわばお抱え作家のようなものですし、物語作家だったのかもしれません。

元武士であった四郎の父含む首謀者たちは、百姓であるキリシタンたちを決起させるために、四郎をキリストに変える物語を作り上げたのだろうと思います。

天草四郎と豊臣秀吉

四郎には、もう1つ、豊臣秀吉の孫という説もあります。

これもきっと元武士である首謀者たちが、関が原の戦いと大阪の陣で敗れ浪人になっていた元西軍の武士たちをも決起させるために流布した話ではないだろうかと思います。

島原の乱とは

島原の乱とは一体なんだったのでしょう。

西軍(豊臣家)VS東軍(徳川家)最後の戦

キリシタンと元西軍の百姓や元武士たちをかき集めたからこそ、一揆という枠を遥かに超えた3万という軍勢になったのだろうと思います。

宗教戦争もあるかもしれませんが、もう一方で東軍VS西軍の最後の戦こそが、島原の乱だろうと思います。

そのような背景があったからこそ、徳川幕府は総勢13万近くの軍勢を原城へ送ったわけです。

3万人vs13万人では勝ち目はありません。

一揆軍は全滅し、江戸幕府はこれにより完全に日本を平定したというわけです。

島原の乱のその後

天草四郎は打ち首になり、その首は長い間、見せしめの意味で長崎の町に吊るされていたとの事です。

島原と天草の百姓がほぼ戦死した為、幕府は移民政策を実施したとのことです。

現在、島原や天草の地に住んでいる人たちのほとんどは、島原の乱の後、九州各地から入植してきた人たちの子孫ということになるようです。

ちなみに島原の原城に立て籠もったことから一般的には島原の乱と言われていますが、天草の人たちは、天草島原の乱と呼んでいるとのことです。

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最後に

原城跡と島原の乱の話は、いかがだったでしょうか?

歴史はミステリーですから、本当のことはわかりません。

もしかしたら本当にイエスキリストの生まれ変わりだったかもしれませんし、豊臣家の人間だったかもしれませんし、もう全く違う話なのかもしれません。

ただ原城で戦ったことは確かだろうと思います。

これ以後の大きな内乱の最後は、同じく九州のかなり近い場所でありました西郷隆盛率いる西南戦争になります。

実は、西郷隆盛さんもキリシタンという説があります。

どこかで何かが結びつき、そこに歴史的大事件の真相が隠れているのかもしれません。

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