天草四郎と島原の乱!?原城跡の現在と一揆の謎と真相真実を解説!!

天草四郎像 歴史(神社・古墳)
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なぜか中学生の頃から、天草四郎のことが気になっていました。

きっかけは思い出せませんが美輪明宏さんと同じく、もしかしたら「ぼくって天草四郎の生まれ変わりなんじゃないか?」とずっと思っていました。そう考えると原城跡は前世最後の地になります。ちょっと鬼門のような気がして、なかなか行けずにいましたが、ようやく行ってきました。

何だか故郷に帰ってきたかのような感覚がありました。

今回は、そんな原城跡天草四郎と島原の乱の謎に迫ります。

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現在の原城跡とは

島原半島にあります原城は、島原の乱の舞台となった城です。今は跡地だけが残っています。

前回、雲仙温泉の地獄を紹介しました。

雲仙地獄から車で約30分くらいで着きます。

原城跡は、島原半島の下・海岸沿いにあります。ちなみに、天草四郎が生まれた場所は対岸にあります現・熊本県上天草市大矢野町になります。その中間に湯島といいまして、島原の乱の前、島原と天草の一揆首謀者たちが作戦会議をした通称談合島があります。現在では島原は長崎県、天草は熊本県とわかれていますが、当時は有明海を挟んだ周辺が同じ文化圏にありました。

天草四郎も宇土から長崎のカトリック学校に通っています。

上記のような経路ではなく完全な航路だったと思いますが。

駐車場

原城温泉・真砂とあります。ここの駐車場(無料です)に止めて海岸沿いを歩くコースがオススメです。

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写真でつづる天草四郎と原城跡

駐車場から原城跡までは大体15分くらいかかります。

原城跡までの道中

一本道ですし案内が出ていますから迷うことはありません。

原城跡徒歩ルート道


原城跡徒歩ルート1

左手には海が広がっています。


原城跡海

遠くに天草が見えます。

約400年前、天草四郎や一揆に立ち上がった3万人ものキリシタンや百姓や浪人たちの気持ちを潮風と共に感じながら原城跡へ向かって歩きます。

岸沿いが終わると次にちょっと坂道を上っていく感じになります。


原城跡という言葉のの方に注目すると、大阪城や名古屋城などの普通のお城を思い浮かべてしまいがちですが原城は城ではなく「跡」です。

実際行ってみるとわかりますが、ほぼ田んぼと畑が広がっていて地元の人が普通に農作業をしています。観光地という雰囲気が全くしないから少し不安になるかもしれません。普通の田舎道を歩いている感じが数分続きますが大丈夫です。

原城跡石碑

丘のてっぺんが原城跡です。そこにも駐車場がありましてガイドさんがいました。美術館でよくあるイヤホン付きの案内レコーダーのようなものもあるようです。島原の乱をよく知らない場合はガイドさんに頼んだ方がいいかもしれません。

キリシタン慰霊碑

原城跡十字架

島原の乱で散っていったキリシタン達の慰霊碑でしょうか。

天草四郎像

天草四郎像

天草四郎の像がありました。

天草四郎の墓

原城跡天草四郎案内版

お墓がありました。

天草四郎墓

お供え物もありました。上記の案内板を見ると、もともと西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したそうです。

3体の像

原城跡の3人

広場の端っこの方に、3人の方が海(天草方面)を見つめている小さな像がありました。

ここまでが現在の原城跡です。

次に天草四郎とは何者なのか?島原の乱とは何だったのか?順番に歴史を紐解いていきましょう。

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天草四郎と島原の乱

まず天草四郎について考察してみます。

天草四郎とは何者なのか?

これより謎に包まれた少年・天草四郎の史実だけを紹介します。

本名

益田四郎です。

天草四郎とイエス・キリスト

なぜ四郎はたった16歳でありながら3万人もの大軍を率いることができたのでしょうか。

そこには島原の乱がキリシタン一揆ということが大いに関係していると思われます。

つまり四郎をイエス・キリストの生まれ変わりという設定にしたことです。

四郎にはイエス・キリストと同じような数々の奇跡を起こした逸話があります。

父の存在

四郎のであった益田好次小西家の文官でした。

元武士であった四郎の父含む元小西家の武士であった首謀者たちは、百姓であるキリシタンたちを決起させるために四郎をキリストに変える物語を作り上げたのでしょう。

天草四郎と豊臣秀吉

四郎には、もう1つ豊臣秀吉の孫という説もあります。

本当か嘘かはわかりませんが、この説を利用したことは間違いありません。

これもきっと元武士である首謀者たちが、関が原の戦いと大阪の陣で敗れ浪人になっていた元西軍の武士たちも決起させるために流布した話だと想像できます。

島原の乱とは

島原の乱とは一体なんだったのでしょう。

西軍(豊臣家)VS東軍(徳川家)最後の戦

キリシタンと元西軍の百姓や元武士たちをかき集めたからこそ、一揆という枠を遥かに超えた3万という軍勢になったのです。

宗教戦争もあるかもしれませんが、もう一方で東軍VS西軍の最後の戦こそが、島原の乱だといえます。

そのような背景があったからこそ徳川幕府は総勢13万近くの軍勢を原城へ送ったわけです。

3万人vs13万人では勝ち目はありません。

一揆軍は全滅しました。

江戸幕府はこの島原の乱の勝利により豊臣側(西軍)を完全に下し、日本を平定したというわけです。

島原の乱のその後

天草四郎打ち首になり、その首は長いあいだ見せしめの意味で長崎の町に吊るされていたとの事です。

島原と天草の百姓がほぼ戦死した為、幕府は移民政策を実施したとのことです。

現在、島原や天草の地に住んでいる人たちのほとんどは島原の乱の後、九州各地から入植してきた人たちの子孫ということになるのです。

ちなみに島原の原城に立て籠もったことから一般的には島原の乱と言われていますが、天草の人たちは天草島原の乱と呼んでいます。

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まとめ

今回は、天草四郎と原城跡と島原の乱について紹介しました。

歴史はミステリーですから本当のことはわかりません。

もしかしたら本当にイエスキリストの生まれ変わりだったかもしれませんし、豊臣家の人間だったかもしれませんし、もう全く違う話なのかもしれません。

ただ原城で戦ったことは確かでしょう。

史実だけを紐解けば、これ以後の大きな内乱の最後は同じく九州の西郷隆盛率いる西南戦争になります。

実は西郷隆盛さんもキリシタンという説があります。

さらに日本の歴史を遡ると九州と中央政府の争いは筑紫野君磐井率いる磐井の乱から何度も勃発しています。

 

 

歴史は断続せずに連綿と続いています。

どこかで何かが結びつき人々が見過ごしているその隙間にこそ歴史的大事件の真相が隠れているのかもしれません。

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