福岡県八女市にある岩戸山古墳に行ってきました。
まずは前方後円墳について
前方後円墳といえば、古代日本において、権力者のお墓です。
お墓だから亡くなった後に作られるものと思いきや、生前から作ったものも多くあります。
ピラミッドのようなもので、その大きさにより権力の大きさを示す、いわば権力の象徴です。
有名なものには世界遺産にもなった大阪・堺市の仁徳天皇稜があります。
堺市へ見に行ったことがありますが、お堀の外側からぼんやり眺めるだけで、ちょっと味気ない印象でした。
岩戸山古墳
それに比べて、この岩戸山古墳は、中も外もなく、古墳の上を歩けます。
何だか罰当たりなような気もしますが、これが勝者と敗者の違いでしょうか。
※この事については、また後述します。
アクセス
岩戸山古墳は、九州を福岡から鹿児島まで北から南に貫く国道3号線沿いの、福岡県の南・八女市にあります。
大きな古墳が残っているところをみると、古代日本においては、筑紫国(現在の福岡県)の中心だったのかもしれません。
八女市は、松田聖子さんやチェッカーズや吉田羊さんや、その他多くの芸能人を輩出し、日本を代表するタイヤメーカー・ブリジストンでも有名な久留米市の隣にあります。
岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」
標識どおりに目的地につくと、ちょっとした資料館があり、駐車場があります。
車を止めて、とりあえず、資料館に行きました。
それが岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」でした。
中に入る前に、何やら、かなりイカツイ顔をした半身像がありました。
彼こそが岩戸山古墳の主・筑紫君磐井さんだとのことです。
※上記写真は、雑誌『歴史人』に掲載されました。
資料館に入ると、受付があり学芸員さんが冊子をくれました。
岩戸山古墳はもちろんその他の八女古墳群(磐井一族関連の墓)についても、親切に説明してくれました。
一通り展示を見終わると、普通なら入ってきた時と同じ玄関から出ていくのでしょうが、ここはちょっと変わっていました。
裏口への案内があり、矢印の方向に進み外へ出ると、すぐに古墳に辿り着きます。
まるでドラえもんの「どこでもドア」のようなナイスな設計に、思わず笑みがこぼれました。
岩戸山古墳散歩
基本的には、裏山を散策するイメージでしょうか。
ジャージ姿の地元の人とも、結構な頻度で、すれ違いました。
地域のウォーキングコースにもなっているようです。
現在でも生活に密着している古墳の姿に、何だか感動すら覚えました。
古墳の上を歩きながら、ぐるりと一周するイメージです。
最後の方は、私自身、観光客であることを忘れ、自然と地元の人と同化しウォーキング気分になっていました。
筑紫君磐井について
さて、筑紫君磐井とは、どんな人物だったのでしょうか。
そのヒントは、古事記と日本書記にあります。
磐井の乱
磐井の乱とは、一体、何なのでしょう。
朝鮮半島の西南部にあった百済を助ける為、ヤマト政権が磐井に協力を求めましたが、すでに新羅との交流があった磐井は突っぱねました。
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こうして磐井は、天皇の命令に従わない悪者とされます。
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そこからヤマト政権との戦いが起こります。
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筑紫君磐井は、他の北部九州の国、火の国(現・熊本県)、豊の国(現・大分県)に応援を求め、ヤマト政権と戦いました。
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そして、磐井含め北部九州の豪族たちは、この戦いに敗れ、完全にヤマト政権の配下になりました。
※前述した勝者と敗者の違いの意味は、ここにあります。
磐井の乱の真相
いうまでもなく、古事記と日本書記は、ヤマト政権目線の歴史が書かれたものですから、実際は違うのかもしれません。
最近の研究では、反乱ではなく、戦争という意見が多くなってきているようです。
確かにそれまではヤマト政権と九州の豪族に主従関係がなかったとすると、反乱と呼ぶには無理があるような気もします。
では、真相は、どういうことなのでしょう。
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しかし、日に日に、ヤマト政権の圧力が増してきました。
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耐えかねた九州の豪族たちは、磐井を中心に、自分たちの権益を守るため、ヤマト政権からの干渉を防ぐため、独立を目指しました。
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現在では、「磐井の乱」ではなく、九州独立戦争であり、一部の研究者間では「磐井の戦」と呼ばれています。
どちらにしても、ヤマト政権が日本を統一する過程での話です。
筑紫君磐井の最期
さて、この戦に敗れた磐井は、その後どうなったのでしょうか。
こちらも、古事記や日本書記に記述があります。
なんと、磐井は切り殺された、ということになっています。
恐ろしいですね。
しかし、一方、違う記述もあります。
おお、良かったですね。
しかし、そうであれば、この岩戸山古墳に無事磐井は埋葬されたのでしょうか?
どうなんでしょう。
もしかして主のいないお墓ということも考えられます。
このへんはもうミステリーですね。
さらに、この話には続きがあります。
葛子
磐井には葛子(くずこ)という息子がいたそうです。
日本書記によると、磐井の貿易の拠点であり支配地であった現在の福岡県糟屋をヤマト政権に譲ったと書かれています。
さらにはヤマト政権から監視役として物部氏が筑紫国に入ってきた、とのことです。
こうして磐井一族は、完全にヤマト政権の支配下に治まりながら、その後も筑紫国一帯を治めていった、とのことです。
九州古代史の会ー九州王朝説ー
一応、以上が、日本書紀に描かれたことを史実とした時の定説ですが、磐井については様々な見解があります。
その中でも、一番、目をひく面白い説があります。
九州古代史の会が研究しているもので、本当は近畿に大和朝廷などはなく、日本書紀は九州王朝としての筑紫(福岡)と豊の国(大分)の歴史を描いた歴史書であるという説があります。
磐井のことを、もっと深く知りたい方には、下記の本がおススメです。
岩戸山古墳周辺の関連古墳
岩戸山古墳周辺には、磐井一族に関係しているだろうと推測されている古墳や建立物が点在しています。
八女郡広川町には、こふんピア広川という資料館もあります。
そこに、磐井の祖父の墓とされる石人山古墳と。
葛子と同世代の権力者だったと推測される誰かの墓である弘化谷古墳があります。
岩戸山古墳から車で10分程度なので、是非、訪れてみてください。
筑後広域公園の巨大石人像
八女市に隣接する筑後市とみやま市の間にある筑後広域公園には、シンボルとして、巨大石人像が建立されています。
写真ではわかりにくいかもしれませんが、ビックリするくらい大きなものなので、一見の価値はあると思います。
筑後広域公園の近くには、日本一の炭酸含有量を誇る水もあります。
まとめ
岩戸山古墳と筑紫君磐井の話はいかがでしたでしょうか。
古墳には歴史があります。
今回、紹介した岩戸山古墳にも、ヤマト政権による日本統一の過程という壮大な歴史が秘められていました。
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