追いやられた筑後の神・高樹神社!?古代史を巡る冒険・現地徹底取材

高樹神社本殿 歴史(神社・古墳)
高樹神社本殿
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高樹神社は、現在、高良大社の下、高良山の麓にあります。

 

 

その昔は、現在の高良大社の場所に高樹神社は鎮座していたそうです。

一体、筑後の王は誰であったのか?

今回は、高良大社の麓に鎮座する前(原)・筑後一の宮ともいうべき高樹神社を紹介します。

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写真でつづる高樹神社ガイド

それでは、高良大社に追い出された神である高樹神社の現在の姿をありのままレポートします。

結論から言うと、想像を超えるほど粗末に扱われていて、正直ビックリしたと共に、権力の座から落ちるという事や、人間社会の冷淡さを再確認した次第です。

アクセス

高樹神社は、高良大社のある高良山の麓に鎮座しております。

正式な住所は、〒839-0851 福岡県久留米市御井町121−1です。

星野珈琲などがある道路から高良大社へ向かう道があります。

鳥居

高良大社側に入ってすぐに1つ目の駐車場があります。

そこで車を止めて、徒歩3分もかかるか、すぐに高樹神社はありました。

高樹神社第一鳥居

意外と近く、山の本当に一番下にあります。

高樹神社鳥居2

文字は消えかけていますが、ちゃんと高樹神社と書かれています。

高樹神社鳥居3

階段を上りますと、すぐに境内にたどり着きます。

由緒

境内に入るとすぐに案内板があります。

高樹神社歴史

高樹神社略歴

文字が消えかかっていますが、どうにか読めました。

全文を引用しますと、このように書かれています。

祭神は高皇産霊神(たかみむすひのみこと)造化の三神の一。
古くは高牟礼権現と称し、高良山の地主神と伝えられる。
この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現われる神社)で、「三代実録」元憲二年(八七八)十一月十三日の条に、「筑後国高樹神ニ従五位上ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれずここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。

 

狛犬

本当に小さい狛犬がいます。

高樹神社狛犬右

向かって右側の狛犬

高樹神社狛犬左

向かって左側の狛犬

高樹神社の石造狛犬は、神殿前庭の狛犬としては筑後地方最古で享保9年(1724年)に奉納されたものだそうです。※下↓の案内板に書かれていました。

高良山歴史の道参道コース

本殿

高樹神社本殿

こじんまりとしていますが、どこか威厳を感じます。

奥の宮

どうやら奥の宮があるようです。

高樹神社奥の宮

しかし…。

高樹神社奥の宮崩れ

全くもって管理されていないような雰囲気です。

歴史の考察

もともと現在の高良大社の位置に鎮座していた地主神である高樹神社です。

高良大社は現在、筑後一宮として、筑後国一の権威ある神社になっています。

親切に高樹神(高牟礼神)が一夜の宿を貸してあげたことをいいことに、高良大社が占拠したという歴史をどう捉えるべきかが焦点になります。

古事記や日本書紀における筑後君磐井の乱は、御井郡で行われ、その時勝ったのは物部氏であります。

 

 

物部氏の神社が高牟神社として名古屋にもありますし、この高樹神社は物部氏を神としたとも思われます。

ただ年代的に色々な矛盾があります。

一つ一つ整理して考えてみます。

 

 

前回、上記の記事で高良大社は物部氏か磐井かを考えました。

高良大社は、4世紀末から5世紀前半に建立されたと伝えられています。
磐井の乱は527年で6世紀前半ですから、磐井の乱が起こる前から高良大社はあったわけです。

元々、高良大社という名前であったかは別にして、現在の高良大社の場所に神がいたわけです。

磐井がこの地で勢力を持っていたとするなら、元々は現在の高良大社の場所には磐井の神がいたと仮定できます。

そして物部氏に敗れた磐井は、筑後の国を物部氏に譲ります。

高牟神社は名古屋にもあり、物部氏の武器倉庫のことです。

高牟と高牟礼、似ていますから、やはり物部氏により高樹神社が出来たと考えた方が自然です。

前述した高樹神社の案内板に出ていた記述を見ると、こう書かれています。

元憲二年(八七八)十一月十三日の条に、「筑後国高樹神ニ従五位上ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

西暦527年以前は磐井、それ以降、西暦878年に記述あり、西暦944年に記述ありですから、その西暦1000年くらいまでは物部氏がこの地を支配していたとも考えられます。

平安時代末期、鎌倉時代に入る前あたりになるでしょうか。

ただ高良玉垂宮の縁起である『高良玉垂宮神秘書』に書かれた以下の記載の年代を再考する必要があります。

高良大明神は鎮座の場所を探して、筑後地方をあちらこちら回っておられました。
大川の港(現・大川市)から上陸して、瀬高のイチガウラという村にたどり着かれて、遥かに北の方角を眺めておりますと、遠くの丘の上に何やら敵らしき人影がたくさん見えるではありませんか。
神様は、自分がこれから進んでいこうとするのを邪魔しようとしているのではないかと驚かれ、さっそく見張りのカラス(ミサキ鳥)を飛ばして調べさせました。
カラスはその丘に飛んでいき、その人物をくちばしでつついてみて、それが石人であることがわかったのです。
ほどなくして戻ってきたカラスは「あれは敵ではなく、ヒトカタ(人形)です」と告げたので、神様は安心して北へ向かって進まれ、八女丘陵をこえて久留米の高良山にお着きになられ、そこを鎮座の場所に決められました。

この記述は、現在の高良大社の歴史ではなく、高樹神社の歴史であるとすると全てが合致します。

では、一体、磐井→物部氏と高良山に鎮座する神が変わったとして、物部氏の神・高樹神社が追いやられ、現在の高良大社の神は一体誰になったのでしょうか?

同じく物部氏の神社である島根県にある物部神社は、高良大社と同じく石見国の一宮となっています。

物部氏は政権の座を追われたものの、古代史族として神社関係の権力だけは残存させてもらえたのかもしれません。

物部氏ではあるが、物部氏ではない、この後の歴史は、もしかしたら古代史の範疇ではなく、鎌倉時代以降の貴族が没落した後の武士の歴史になるかもしれません。

まとめ

今回は、高樹神社を紹介しました。

高樹神社は、元々、高良山のてっぺん現在の高良大社の位置に鎮座していました。

筑紫君磐井を滅ぼした後、高良山には物部氏が鎮座したと考えられます。

そして何らかの政変により、麓に追いやられ、現在の位置に鎮座していると考えられます。

物部氏にまつわる何かが起きたのだろうと推測できますが、一応、西暦944年までは高樹神社の格式を記述されていますから、西暦1000年前後以降の歴史となり、古代史の範疇ではないと結論付けることにします。

よって結論としては、高良大社も高樹神社も物部氏であろうと思う所存であります。

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