スポンサーリンク

黒木瞳とは何者か|八女市での生い立ちと五木寛之との関係

黒木瞳とは何者か ゆかりの人
この記事は約12分で読めます。

※Amazonのアソシエイトとして、久留米ジャーナルは適格販売により収入を得ています。

宝塚歌劇団のトップ娘役として活躍し、映画『失楽園』やドラマ『白い巨塔』など、数多くの作品に出演してきた女優・黒木瞳。

福岡県八女市の出身であることは知られていますが、実は女優人生の原点が久留米市にあったことは、あまり知られていないかもしれません。

黒木瞳が高校演劇で初めて立った舞台。それが、かつて久留米市城南町にあった久留米市民会館でした。

現在は取り壊され、久留米市役所の第2駐車場となっている場所です。

さらに、黒木瞳という芸名を名付けたのは、同じ八女市出身の作家・五木寛之でした。後には五木の代表作『青春の門』のテレビドラマにも出演しています。

八女郡黒木町で育った少女は、どのようにして日本を代表する女優になったのでしょうか。

その生い立ちから宝塚時代、代表作品、そして故郷とのつながりまでをたどります。

スポンサーリンク

黒木瞳の生い立ち|八女郡黒木町で育った江上昭子

黒木瞳は1960年10月5日、福岡県八女郡黒木町(現在の八女市黒木町)に生まれました。

生まれたときの名前は江上昭子。4人きょうだいの末っ子として育ちました。

父親は畜産業を営み、母親は食堂を経営していました。両親とも仕事で忙しく、幼いころは祖母と一緒に過ごすことが多かったといいます。

祖母は歌が好きで、黒木にもさまざまな歌を教えました。黒木自身も地域ののど自慢大会に出場するなど、幼いころから人前で歌うことに親しんでいました。

また、父親は剣道7段の腕前を持ち、黒木も小学4年生から剣道を習っています。

音楽や剣道だけでなく、田植えや稲刈り、牛の世話なども手伝っていたそうです。

南仙橋の下で泳いでいた少女時代

2024年に発行された八女市制70周年記念誌の対談で、黒木は故郷での暮らしを振り返っています。

幼いころ、母親が矢部川へ洗濯に行く際について行き、南仙橋の下で泳いでいたというのです。

南仙橋は黒木町にあった木橋で、2012年7月の九州北部豪雨によって流失しました。

黒木が幼いころに見ていた黒木町の風景は、現在では失われたものもあります。

全国的な女優となった黒木瞳ですが、その原風景には、矢部川や田畑、黒木町の山々がありました。

なお、八女市出身の著名人としては、実業家の堀江貴文(ホリエモン)も知られています。

堀江は八女市で育ち、久留米大学附設中学校・高校へ進学しました。

同じ八女市出身でも、黒木は筑後市の八女高校、堀江は久留米市の久留米大学附設へと進み、それぞれ異なる世界で活躍することになります。

八女高校時代|演劇に夢中になった少女

黒木瞳が演劇に関心を持ったのは、中学2年生のころでした。

文化祭で友人が演じた、菊池寛の戯曲『父帰る』を見たことがきっかけだったといいます。

それまで映画を見ることは好きだったものの、人が舞台上で役を演じることに強くひかれたのは、この経験からでした。

黒木中学校を卒業すると、演劇部のある福岡県立八女高校へ進学しました。

八女高校は名称から八女市内にあると思われがちですが、所在地は筑後市和泉です。

黒木町からは距離があり、当時の黒木は50ccの単車や国鉄矢部線のディーゼルカー、堀川バスなどを利用して通学していたことを語っています。

現在は廃止された国鉄矢部線も、当時の高校生活を支える交通手段の一つでした。

高校では演劇部に所属し、県大会を勝ち抜いて九州大会まで進出しました。

全国大会には届きませんでしたが、その悔しさは長く記憶に残っていたようです。

2018年、ニッポン放送の番組で同じ高校演劇出身の俳優・六角精児と対談した際にも、全国大会へ行けなかった思いを振り返っています。

八女高校と五木寛之、蔵内勇夫の縁

八女高校は1908年に開校した旧制八女中学校を前身とする学校です。

作家の五木寛之も、1947年に八女中学校へ転入した経歴があります。ただし、その後は光友中学校へ移り、福岡県立福島高校を卒業しています。

したがって、五木は八女高校の卒業生ではありませんが、その前身校に在籍していた人物です。

一方、八女高校の卒業生には、福岡県議会で長年活動した蔵内勇夫もいます。

蔵内は1972年、黒木は1979年の卒業で、蔵内が7年先輩に当たります。

同じ八女高校から、一人は福岡県政の世界へ、もう一人は宝塚を経て芸能界へと進みました。

久留米市民会館が初舞台|女優人生の原点

黒木瞳と久留米市を結ぶ、最も興味深いエピソードが高校演劇時代の初舞台です。

2018年11月、ニッポン放送の『黒木瞳のあさナビ』に俳優の六角精児が出演しました。

二人はともに高校演劇出身という共通点があり、当時の演劇活動について話が弾みました。

その中で黒木は、宝塚に入る前の初舞台が高校演劇だったこと、そしてその会場が久留米市民会館だったことを明かしています。

宝塚歌劇団の舞台でもなければ、東京の劇場でもありません。

八女高校の演劇部員だった黒木が、初めて舞台に立った場所は久留米だったのです。

具体的な公演年月日や演目までは確認できていませんが、黒木本人が初舞台の会場として久留米市民会館を挙げていることは確かです。

久留米市民会館は現在のどこにあったのか

久留米市民会館は1969年に開館した文化施設です。

所在地は久留米市城南町16番地1。現在の久留米市役所本庁舎の北西側にありました。

設計を手がけたのは、久留米市出身の建築家・菊竹清訓です。

大ホールは1,348席を備え、演劇やコンサート、講演会など、久留米の文化活動を支える施設として長年利用されてきました。

しかし、久留米シティプラザの開館に伴い、2016年7月末に閉館。その後、建物は解体されました。

跡地は2018年7月から久留米市役所の第2駐車場として使われています。

久留米市役所の駐車場となった場所に、かつて久留米の文化活動を支える大きなホールがあり、若き日の黒木瞳もその舞台に立っていたことになります。

本人は高校演劇を役者としての原点と捉え、当時の活動に強い思いを持ち続けていました。

久留米市民会館は姿を消しましたが、黒木瞳の女優人生の出発点として記憶される場所なのです。

両親に内緒で宝塚音楽学校を受験|人生を変えた決断

高校時代、黒木瞳は宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』を観劇し、その華やかな舞台に大きな衝撃を受けました。

ただし、当初から宝塚へ進むと決めていたわけではありません。

大学への進学を考え、音楽大学の受験勉強をしていました。

両親は安定した職業に就くことを望んでおり、宝塚音楽学校の受験には簡単に賛成してもらえないと考えていたようです。

そこで高校3年生のとき、両親に内緒で宝塚音楽学校を受験することにしました。

受験料の1万円は、当時のボーイフレンドから借りたと本人がテレビ番組やインタビューで明かしています。

しかも、クラシックバレエを習い始めたのは受験のわずか1週間前でした。

すでに大学には合格しており、宝塚の受験は本人にとって夢に区切りをつけるための挑戦でもあったのです。

ところが、その宝塚音楽学校に見事合格します。

1979年、八女高校を卒業した黒木は、大学進学ではなく宝塚の道を選びました。

久留米市民会館で舞台に立った少女が、本格的に演劇の世界へ進んだ瞬間でした。

五木寛之との関係|芸名から『青春の門』『大河の一滴』まで

黒木瞳の人生を語る上で欠かせない人物が、同じ八女市出身の作家・五木寛之です。

五木は『青春の門』『蒼ざめた馬を見よ』『大河の一滴』などで知られる小説家・エッセイストです。

黒木と五木の関係は、単に出身地が同じというだけではありません。

芸名の命名から文学作品への出演、さらに愛読書に至るまで、複数の接点が確認できます。

五木寛之が名付けた「黒木瞳」という芸名

宝塚音楽学校では、生徒が自分の芸名を考える機会がありました。

黒木も芸名を考えていましたが、当初の候補は「黒木藤子」でした。

故郷にある国指定天然記念物「黒木の大藤」にちなんだ名前です。

ちょうどそのころ、宝塚歌劇団では五木寛之の小説『朱鷺の墓』を原作とした舞台『白夜わが愛』が上演されていました。

黒木が五木と同じ八女地方にゆかりを持ち、八女高校の前身校を通じた縁もあったことから、劇団側が五木に芸名の命名を依頼しました。

すると、夏休み中の黒木のもとに五木の妻から電話があり、「黒木瞳」という名前が提案されたのです。

「黒木」は故郷の黒木町から。

そして「瞳」は、五木が親しんでいたロシアの歌『黒い瞳』にちなんだものでした。

さらに不思議な縁がありました。

黒木の父親には、幼いころに病気で亡くなった姉がいました。その姉の名前も「瞳」だったのです。

五木からは「ひとみ」の表記を漢字にしても、ひらがなにしてもよいと伝えられましたが、黒木は亡くなった伯母と同じ漢字を選びました。

故郷の地名、ロシアの歌、そして家族の記憶。

その三つが重なって生まれた名前が「黒木瞳」でした。

五木寛之の『青春の門』に出演した黒木瞳

芸名を名付けてもらったという縁は、その後、作品を通してもつながっていきます。

1991年4月、テレビ東京系で五木寛之原作のドラマ『青春の門』が二夜連続で放送されました。

黒木瞳はこの作品に出演し、主人公・伊吹信介の義母である伊吹タエを演じました。

共演者には役所広司や渡部篤郎らが名を連ねています。

『青春の門』は筑豊の炭鉱地帯を舞台に、若者の成長や家族、人間関係を描いた五木寛之の代表作です。

黒木が演じたタエは、信介を育てる母親として物語の重要な役割を担う女性でした。

五木から芸名を贈られた少女が、宝塚でスターとなり、その後、五木の代表作を映像化したドラマに出演する。

同じ八女市にルーツを持つ作家と女優の歩みが、作品の中でも交差したことになります。

『大河の一滴』を人生の支えに

黒木瞳にとって、五木寛之は芸名の名付け親であるだけでなく、その著作も大切な存在となっています。

黒木が繰り返し読み返す本として挙げているのが、五木のエッセイ『大河の一滴』です。

人生で壁にぶつかったとき、死を意識したとき、怒りを抑えられないときなどに、この本を手に取ると語っています。

この発言は、八女市教育委員会が2022年3月に策定した『第4次八女市子どもの読書活動推進計画』でも紹介されました。

同じ八女市出身の女優が、同郷の作家の本から人生について考えるきっかけを得ていることを、八女市が読書の大切さを伝える事例として取り上げたのです。

『大河の一滴』は、人間の苦しみや絶望を直視しながら、それでも生きていくことについて考える一冊です。

黒木は幼いころに祖母を亡くし、宝塚時代には親しい人との突然の別れも経験しています。

その人生を考えると、五木の言葉が黒木にとって特別な意味を持っていることも理解できます。

芸名の命名からドラマ出演、そして人生の節目に読み返す本まで。

五木寛之は、黒木瞳の人生に長く関わる存在となっています。

関連記事:五木寛之とは?八女市出身の作家が描く人生と文学世界

宝塚のトップ娘役へ|大地真央の相手役となった黒木瞳

1981年、黒木瞳は宝塚歌劇団に入団しました。

宝塚での初舞台は『宝塚春の踊り』です。

そして翌1982年には、月組のトップ娘役に抜擢されます。

入団からわずかな期間での異例の昇格でした。

相手役を務めたのは、当時月組トップスターだった大地真央です。

大地真央と黒木瞳のコンビは高い人気を集め、『情熱のバルセロナ』『ガイズ&ドールズ』など数々の舞台に出演しました。

黒木が宝塚歌劇団に在籍したのは1981年から1985年までの約4年間です。

1985年、『二都物語』『ヒート・ウェーブ』を最後に退団しました。

宝塚でトップ娘役にまで上り詰めながら、その地位に長くとどまるのではなく、映像作品を中心とする新たな女優人生へと進むことになります。

『化身』『失楽園』『白い巨塔』|映画・テレビでの活躍

宝塚退団後の黒木瞳は、映画やテレビドラマで活躍するようになります。

映画『化身』で日本アカデミー賞新人俳優賞

1986年、渡辺淳一の小説を原作とする映画『化身』に主演しました。

監督は東陽一。黒木は、文芸評論家の男性との関係を通して変化していく若い女性を演じました。

宝塚のトップ娘役だった黒木が、それまでの清楚なイメージとは異なる役柄に挑んだ作品です。

この映画で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しました。

また、同じ1986年にはNHK連続テレビ小説『都の風』にも出演しています。

『失楽園』が社会現象に

1997年には、森田芳光監督の映画『失楽園』に出演しました。

原作は『化身』と同じ渡辺淳一です。

黒木は役所広司と共演し、不倫関係に陥る女性・松原凛子を演じました。

作品は大きな話題を集め、「失楽園」という言葉そのものが社会現象になるほどの反響を呼びました。

黒木はこの作品で第21回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞しています。

『化身』から約11年。

黒木瞳は、日本映画を代表する女優の一人となっていました。

『白い巨塔』で見せた別の顔

2003年から2004年にかけてフジテレビ系で放送されたドラマ『白い巨塔』にも出演しました。

山崎豊子の小説を原作とする作品で、唐沢寿明演じる財前五郎と、江口洋介演じる里見脩二を中心に、大学病院の権力争いや医療のあり方を描いたドラマです。

黒木が演じたのは、財前の愛人でクラブを経営する花森ケイ子でした。

華やかな雰囲気を持ちながら、財前の本質を理解し、時にその弱さも受け止める女性です。

『失楽園』で見せた情熱的な女性像とはまた異なる魅力を発揮しました。

その後も黒木は映画、テレビ、舞台など幅広い分野で活動し、映画監督としても作品を発表するようになります。

故郷・八女への思い|映画『線香花火』と黒木町

全国的な女優となった後も、黒木瞳と故郷・八女とのつながりは続いています。

2012年7月、九州北部豪雨によって八女市は大きな被害を受けました。

黒木町でも河川の氾濫や土砂災害などが発生し、幼いころに泳いだ南仙橋も流失しました。

黒木は災害を知ると八女市長に連絡を取り、被災した故郷を訪れています。

また、黒木町桑原にある福岡県立輝翔館中等教育学校の校歌は、黒木瞳が作詞したものです。

校歌の中には、藤の花や川のせせらぎなど、故郷の自然を思わせる言葉も盛り込まれています。

故郷で撮影した短編映画『線香花火』

2022年には、自ら監督した短編映画『線香花火』を発表しました。

上映時間は約25分。

突然実家に帰ってきた女性と家族、そして学生時代の友人との手紙を通して、過去の記憶や人とのつながりを描く作品です。

黒木はこの映画を故郷の八女市で撮影しました。

黒木町をはじめ、福島地区の白壁の町並み、矢部川など、八女の風景が作品に登場します。

かつて自身が泳いだ川や登った山、通学した中学校なども撮影に使われました。

2022年9月には、八女市本町のおりなす八女・ハーモニーホールで上映会が開かれています。

若いころに故郷を離れ、宝塚から日本の映画界へ進んだ黒木瞳。

その黒木が今度は映画監督として、自分が育った町を作品の舞台に選んだのです。

少女時代には当たり前だった黒木町の風景が、映画を通して改めて記録されることになりました。

まとめ|久留米市民会館から始まった女優人生

黒木瞳は、八女郡黒木町で育ち、筑後市の八女高校で演劇に熱中しました。

そして高校演劇で初めて立った舞台が、久留米市民会館でした。

その後、宝塚音楽学校へ進み、五木寛之から贈られた「黒木瞳」という芸名でスターとなります。

映画『化身』『失楽園』、ドラマ『白い巨塔』などで活躍し、日本を代表する女優の一人となりました。

しかし、その人生は故郷から離れていくだけのものではありませんでした。

五木寛之とのつながりは芸名の命名だけにとどまらず、『青春の門』への出演や『大河の一滴』という本を通して続いています。

さらに、映画監督となった黒木は、自分が生まれ育った八女の風景を『線香花火』という作品に残しました。

黒木瞳の歩みをたどると、八女の山々や矢部川、今は廃止された国鉄矢部線、そして久留米市民会館など、昭和の筑後地方の風景も浮かび上がってきます。

久留米市民会館はすでに取り壊され、その跡地は駐車場となりました。

あの場所に、後に日本を代表する女優となる少女が立っていた。

久留米の街が持つ文化の歴史には、そんな一場面も刻まれていたのです。


タイトルとURLをコピーしました