なぜ市営団地前!?帝国陸軍・輜重兵第18聯隊の石碑と爆弾三勇士!?

久留米輜重兵18聯隊石碑 歴史(神社・古墳)
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先日、ウォーキングをしていて、一つの石碑を発見しました。

久留米市立南小学校と福岡教育大学付属小学校の間、市営団地前にある輜重兵聯隊(しちょうへいれんたい)の石碑になります。

「珍しいところに建っているなあ??」

「なぜ、こんなところに石碑が??」

「何の石碑だろう??」

そんな疑問から調べてみましたら、爆弾3勇士の驚きの事実が判明しました。

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久留米学園通りの輜重兵聯隊の石碑とは

それでは、順をおって、輜重兵聯隊の石碑を見ていきましょう。

アクセス

県道755号線、通称学園通りと呼ばれている脇に、輜重兵聯隊の石碑は建っています。

ちょうど、久留米市立南小学校と付属小学校の間くらいになります。

久留米輜重兵聯隊の石碑・正面写真

輜重兵聯隊の石碑は、道路(県道755号線)に背を向けて、市営団地の方を正面にして建っています。

下記は、市営団地側から撮った写真になります。

真ん中が新しい石碑で、向かって左側にあるのが古い石碑になります。

久留米輜重兵聯隊1


久留米輜重兵聯隊2

輜重兵聯隊之跡と彫られています。


久留米輜重兵聯隊3

忠馬之碑と彫られています。


久留米輜重兵聯隊の石碑の背面(説明)写真

道路側からは、石碑の背面が見えます。

石碑の背面には、石碑の説明が書かれています。

久留米輜重兵聯隊説明


久留米輜重兵聯隊石碑裏

久留米輜重兵聯隊石碑の説明文

以下、輜重兵聯隊石碑の裏に書かれている説明を引用します。

〈新しい黒い石碑・碑文〉
明治40年隊の創立より昭和20年の終戦まで
輜重隊は
この地において
作戦上の輸送補給並びに戦力を養い
各種の戦役事変大戦に際し
数多くの部隊や補充要員を送り
更に災害派兵治安維持及び壮丁の教育訓練に若き血を燃やした跡である
ここに生存者一同この碑を建て亡き戦友の冥福を祈り軍馬の霊を慰める。
昭和54年3月10日建立

古い方の石碑の裏には、このように書かれています。

昭和八年十一月建立
輜重兵第十八大隊長平橋平三郎
外将兵一同

輜重兵第18聯隊とは

輜重兵聯隊とは、主に、物資や人員の輸送を行う部隊になります。

もともとは、1898年(明治31年)北九州・小倉に帝国陸軍第12師団が結成され、輜重聯隊も小倉にありました。

しかし、その後、久留米にあった第18師団が廃止となった際、1925年(大正14年)久留米の地に輜重兵聯隊が移転しました。

第18師団に関しては、以前、諏訪野町公園の石碑に関する記事で取り上げています。

 

 

爆弾三勇士と輜重聯隊石碑

古い方の石碑は、昭和8年とかなり古い時期に建立されています。

ちょうど時期的に考えられる理由としては、昭和7年(1932年)の日中戦争(第一次上海事変)になります。

この時、輜重兵第18聯隊の兵士3人が戦死しています。

当時、爆弾三勇士として映画にもなっています。

爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)とは、第18大隊(久留米)の江下武二(えしたたけじ)、北川丞(きたがわ すすむ)、作江伊之助(さくえ いのすけ)の3名の一等兵のことになります。

1932年に第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされました。

肉弾三勇士とも言われました。

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まとめ

今回は、久留米市学園通りに建っている輜重兵聯隊の石碑を紹介しました。

輜重兵聯隊(しちょうへいれんたい)とは、物資や人員の輸送を行う部隊になります。

古い方の石碑は、昭和8年に建立されています。

昭和7年の上海事変の戦没者であり、爆弾三勇士として有名であった隊員の霊を慰める為に建立されたのかもしれません。

新しい方の石碑は、昭和54年に建立されています。

 

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