久留米市の五穀神社と福岡県青少年科学館の間にある「郷学の森」。
ここには、久留米ゆかりの偉人たちの胸像が並んでいます。
ブリヂストン創業者の石橋正二郎、東芝の創業者の一人である田中久重、久留米絣を生み出した井上伝など、久留米の歴史に名を残した人物たちです。
その中に、楢橋渡(ならはし・わたる)という政治家の胸像があります。
楢橋渡は、炭鉱労働者から独学で弁護士となり、戦後には内閣書記官長や運輸大臣を務めた人物です。
その風貌と弁舌から「政界の怪物」と呼ばれました。
しかし、楢橋渡の人生をたどると、単に久留米出身の大臣というだけではないことがわかります。
戦後の日本自由党結成では鳩山一郎や河野一郎らと関わり、GHQによる占領下では政府の中枢に入りました。
さらに、ブリヂストン創業者・石橋正二郎の東京の邸宅を舞台に、戦後日本の政治家たちと交流していたのです。
その人脈をたどれば、現在の衆議院議員である鳩山二郎や河野太郎、福岡7区の藤丸敏にもつながります。
一方、晩年には汚職事件で有罪判決を受けています。
久留米が生んだ異色の政治家、楢橋渡とは何者だったのでしょうか。
その生涯と、現在まで続く政治との関係をたどります。
楢橋渡とは何者か|久留米出身の「政界の怪物」
楢橋渡は1902年(明治35年)3月22日、福岡県久留米に生まれました。
1973年(昭和48年)11月17日に71歳で亡くなるまで、弁護士、衆議院議員として活動した人物です。
衆議院議員には通算7回当選しています。
主な経歴は以下のとおりです。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1902年 | 福岡県久留米に生まれる |
| 1923年 | 独学で弁護士試験に合格 |
| 1926年 | フランスへ留学 |
| 1942年 | 衆議院議員に初当選 |
| 1945年 | 幣原内閣で法制局長官 |
| 1946年 | 内閣書記官長、国務大臣 |
| 1959年 | 第2次岸改造内閣で運輸大臣 |
| 1961年 | 武州鉄道汚職事件で逮捕 |
| 1972年 | 衆議院議員に返り咲く |
| 1973年 | 有罪判決が確定。同年死去 |
内閣書記官長とは、現在の内閣官房長官に相当する役職です。
戦後間もない日本で、総理大臣を支える政府中枢の役職を務めていました。
現在の久留米ではあまり名前を聞かなくなりましたが、昭和政治史をたどると、重要な場面に登場する人物です。
炭鉱夫から弁護士へ|楢橋渡の異色の経歴
独学で弁護士試験に合格
楢橋渡の経歴で特に目を引くのが、政治家になるまでの人生です。
高等小学校卒業後、筑豊の炭鉱で働き、その後、東京へ向かいました。
法律の専門教育を受けることが難しかった時代に独学で勉強を重ね、1923年、20歳で弁護士試験に合格しています。
大正時代の日本では、現在以上に学歴や家柄が社会的な地位を左右していました。
そうした時代に炭鉱労働から弁護士へ転身したという経歴は、極めて異色です。
フランス留学と東京市債事件
1926年にはフランスへ渡り、リヨン大学やソルボンヌ大学で学びました。
帰国後は、東京市が発行した外債をめぐる「東京市債事件」でフランス政府を相手とする訴訟に関わり、勝訴によって名を上げたとされています。
楢橋は外国語にも堪能で、国際交渉に強みを持つ弁護士として活動しました。
後にGHQとの交流で存在感を示すことになりますが、その背景には、この時代に培った語学力と交渉能力がありました。
1942年の翼賛選挙で初当選|戦時中に政界へ
楢橋が初めて衆議院議員に当選したのは、1942年4月30日の総選挙です。
この選挙は、東條英機内閣のもとで実施された、いわゆる「翼賛選挙」でした。
戦争遂行を支える議会体制を整えるため、翼賛政治体制協議会が候補者を推薦した選挙です。
楢橋は政府側の推薦を受けない非推薦候補として、旧福岡3区から立候補しました。
その結果、18,766票を獲得して当選します。
しかも、この選挙区では最多得票でした。
もちろん、非推薦候補だったという事実だけで、楢橋が戦時体制全体に反対する政治家だったとは言えません。
しかし、政府側の推薦候補が多数を占めた選挙で、非推薦の楢橋がトップ当選したことは注目に値します。
こうして楢橋は、戦時中に国政へ進出しました。
そして1945年、日本の敗戦によって政治の舞台が大きく変わることになります。
石橋正二郎の邸宅に集まった鳩山一郎と楢橋渡
楢橋渡の人生を考えるうえで、最も興味深いのが、久留米出身の実業家・石橋正二郎との関係です。
ブリヂストン創業者として知られる石橋正二郎は、日本を代表する経営者であると同時に、鳩山家とも深いつながりを持っていました。
戦後、この石橋正二郎の東京の邸宅が、日本の政治家たちの活動の拠点の一つとなっていたのです。
鳩山一郎も暮らした石橋正二郎の邸宅
1945年の敗戦後、鳩山一郎は戦災によって自宅の音羽御殿を使用できず、東京・麻布にあった石橋正二郎の邸宅に身を寄せていました。
同じ邸宅には、楢橋渡、松野鶴平、木村武雄らも滞在していたとされています。
鳩山一郎は、後に第52代から第54代の内閣総理大臣を務める政治家です。
松野鶴平も戦後に参議院議長を務めた大物政治家でした。
つまり、石橋邸には戦後日本の政治を動かすことになる人物たちが集まっていたのです。
当時の石橋正二郎は、久留米から事業を発展させ、日本を代表する実業家となっていました。
その東京の邸宅が、戦後の政治家たちの交流の場になっていたことは、久留米の歴史を考えるうえでも興味深い事実です。
鳩山一郎・河野一郎らと日本自由党の結成に関わる
1945年11月、鳩山一郎を中心として日本自由党が結成されました。
この結党過程には、楢橋渡のほか、河野一郎、三木武吉、芦田均、安藤正純らが関わっています。
河野一郎は、後に副総理などを歴任する政治家で、河野洋平元衆議院議長の父、河野太郎衆議院議員の祖父にあたります。
つまり楢橋渡は、現在の鳩山家や河野家につながる政治家たちと、戦後の新党結成に関わっていたことになります。
なお、1945年に結成された日本自由党と、現在の自由民主党は同じ政党ではありません。
現在の自由民主党が誕生したのは、1955年の保守合同によってです。
しかし、その前史をたどると、日本自由党と鳩山一郎らの活動は重要な位置を占めています。
久留米出身の楢橋渡と石橋正二郎は、戦後の保守政党が形成されていく時代に、鳩山一郎らと接点を持っていたのです。
関連記事:鳩山家と石橋家の関係とは|石橋正二郎の功績はなぜ福岡6区の地盤になったのか
幣原内閣の中枢へ|GHQと交流した楢橋渡
法制局長官から内閣書記官長へ
終戦直後、楢橋は幣原喜重郎内閣で法制局長官を務めました。
1946年1月13日には内閣書記官長に就任し、同年2月26日からは国務大臣も兼任しています。
内閣書記官長は、現在の内閣官房長官に相当する役職です。
外国語に堪能だった楢橋は、GHQの幹部との交流でも知られるようになります。
一方、鳩山一郎らとは政治的に距離が生じていきました。
鳩山らと日本自由党の結成に関わりながら、幣原内閣の中枢に入ったことで、政治的な立場が異なっていったのです。
石橋正二郎邸は内閣書記官長官邸にもなっていた
ここでも石橋正二郎の邸宅が登場します。
1946年、東京・麻布にあった石橋邸は、内閣書記官長の官邸として借りられていました。
同年春、楢橋はこの邸宅にGHQの将校たちを招いて会食を開いています。
このときの様子は、後に関係者の回想として記録されています。
招かれたのはアメリカ陸軍や海軍の将校たちで、食事の後には会話やダンスを楽しんだとされています。
敗戦から間もない日本で、占領軍と政府高官の間には複雑な力関係がありました。
楢橋は、その関係を公式の会談だけでなく、私的な交流によっても築こうとしていたことがうかがえます。
ここで注目したいのは、久留米出身の石橋正二郎の邸宅が、戦後日本の政治とGHQを結ぶ場の一つになっていたことです。
石橋正二郎と鳩山家の関係はよく知られていますが、そこに楢橋渡というもう一人の久留米出身者が存在していたことになります。
日本国憲法の制定過程にも関わった
楢橋が内閣書記官長を務めていた1946年は、日本国憲法の制定作業が進められていた時期でもありました。
同年2月13日、GHQは日本政府に新しい憲法草案を提示します。
日本政府がそれまで検討していた案とは大きく異なる内容で、その後、日本国憲法の制定に向けた作業が急速に進みました。
楢橋は、こうした歴史的転換期に政府中枢で活動していた政治家です。
ただし、日本国憲法を楢橋自身が起草したというわけではありません。
憲法草案の作成にはGHQ民政局や日本政府の関係者が関わっており、楢橋の役割については政府内での立場とGHQとの接点を区別して考える必要があります。
それでも、久留米出身の政治家が日本国憲法制定期の政府中枢にいたことは、特筆すべき経歴でしょう。
個人タクシー制度を推進した運輸大臣
楢橋渡の政治家としての実績で、現在の暮らしにもつながっているのが、個人タクシー制度です。
1959年6月、楢橋は第2次岸信介改造内閣で運輸大臣に就任しました。
当時のタクシー業界は法人営業が中心で、運転手が自ら事業者となって営業する道は限られていました。
また、厳しいノルマに追われる運転手の労働環境も問題になっていました。
楢橋は個人タクシーの営業を認める方針を進めます。
1959年12月3日には、東京で173人に対して個人タクシーの営業免許が認められました。
国会で語った個人タクシー導入の理由
1960年4月26日の参議院内閣委員会で、楢橋は個人タクシーの導入について答弁しています。
その中で、従来のタクシー業界では、運転手が厳しいノルマに追われていた状況に言及しました。
運輸大臣に就任後、そうした労働環境を踏まえ、個人タクシーを認める方針を取ったと説明しています。
楢橋にとって個人タクシーは、単なる営業形態の変更ではなく、運転手の働き方にも関わる制度改革だったのです。
現在では街中で当たり前のように見かける個人タクシーですが、その制度の普及に楢橋渡が大きく関わっていました。
武州鉄道汚職事件|「政界の怪物」の失脚
一方、楢橋渡の人生には、政治家としての功績だけでは語れない部分があります。
それが武州鉄道汚職事件です。
武州鉄道は、埼玉県内で計画されていた鉄道事業に関係する会社でした。
楢橋は、その鉄道事業の免許をめぐる汚職事件に関与したとして、1961年に逮捕されました。
運輸大臣を務めた人物が、鉄道事業に関係する汚職事件で摘発されたことは、政治家として大きな打撃でした。
裁判は長期化します。
その間、楢橋は1963年、1967年、1969年の衆議院選挙で落選を重ねました。
それでも、1972年12月の衆議院総選挙で当選し、国政への復帰を果たします。
しかし翌1973年、東京高等裁判所で懲役2年、執行猶予4年の有罪判決が確定しました。
同年11月17日、楢橋は71歳で亡くなります。
炭鉱労働者から大臣にまで上り詰め、制度改革を実現しながら、最後は汚職事件で有罪となった政治家。
その人生は、成功だけでも失敗だけでも説明できません。
「政界の怪物」と呼ばれた楢橋渡の生涯には、戦後日本の政治が持っていた活力と問題の両面が表れています。
息子・楢橋進も国会議員に|古賀誠と交差した旧福岡3区
楢橋渡の死後、その政治活動を引き継ぐことになったのが長男の楢橋進(ならはし・すすむ)です。
楢橋進は1934年に久留米で生まれ、慶應義塾大学を卒業後、三井物産勤務などを経て父の秘書を務めました。
1973年11月に父が亡くなると、同年12月23日に実施された衆議院福岡3区補欠選挙に自民党公認で立候補します。
結果は80,862票を獲得して当選。
父の死から約1か月後、息子が同じ選挙区で国会議員となりました。
1979年、楢橋進に敗れた古賀誠
この旧福岡3区で、その後存在感を高めたのが古賀誠です。
古賀誠は福岡県山門郡瀬高町、現在のみやま市の出身です。
1979年10月の衆議院総選挙で、古賀誠は旧福岡3区から初めて立候補しました。
しかし、この選挙では落選しています。
| 候補者 | 得票数 | 結果 |
|---|---|---|
| 楢橋進 | 57,083票 | 当選 |
| 古賀誠 | 52,535票 | 落選 |
定数5人の選挙区で、楢橋進は5位当選、古賀誠は6位落選でした。
両者の差は4,548票です。
当時は中選挙区制で、同じ自民党から複数の候補者が立候補し、議席を争うことも珍しくありませんでした。
楢橋進と古賀誠も、同じ自民党の候補者として議席を争っていたのです。
1980年、古賀誠と楢橋進がそろって当選
翌1980年6月22日の総選挙では、状況が変わります。
| 候補者 | 得票数 | 結果 |
|---|---|---|
| 古賀誠 | 85,822票 | 1位当選 |
| 楢橋進 | 75,699票 | 2位当選 |
前年落選した古賀誠は、今度は選挙区トップで初当選しました。
楢橋進も2位で当選しています。
ただし、この関係が長く続いたわけではありません。
1983年の総選挙では、古賀誠が当選する一方、楢橋進は落選しました。
その後、古賀誠は国政での地位を高め、運輸大臣や自民党幹事長などを歴任することになります。
楢橋進は1986年の総選挙でも落選し、1990年に55歳で亡くなりました。
楢橋進と古賀誠の関係は、同じ選挙区で競い合った政治家というものです。
かつて楢橋父子が活動していた旧福岡3区で、古賀誠が存在感を高めていったことは、筑後地方の政治史を考えるうえで重要です。
藤丸敏|古賀誠の秘書から福岡7区の衆議院議員へ
もう一つ、筑後地方の選挙史からたどることのできる関係があります。
福岡7区選出の藤丸敏衆議院議員です。
藤丸敏は、古賀誠衆議院議員の秘書を務めた人物で、2012年の衆議院総選挙で初当選しました。
藤丸敏本人の経歴によると、1980年から古賀誠事務所に書生秘書として関わり、後に公設第一秘書も務めています。
旧福岡3区で楢橋進と議席を争った古賀誠が、その後、国政で地位を築き、その秘書だった藤丸敏が現在の福岡7区で活動しているのです。
楢橋渡から楢橋進へ。そして同じ旧福岡3区で活動した古賀誠から、藤丸敏へ。
これは楢橋家の政治的地盤が一直線に継承されたという意味ではありません。
しかし、筑後地方の国政選挙を長い時間軸で見ると、それぞれの人物の活動が同じ地域の政治史の中で交差していることがわかります。
関連記事:蔵内勇夫はなぜ鳩山二郎に対抗したのか|麻生太郎も絡んだ2016年福岡6区補選
久留米・郷学の森に残る楢橋渡の胸像
久留米市の郷学の森には、現在も楢橋渡の胸像があります。
その碑文では、楢橋を郷土が生んだ大政治家と評価し、苦学して弁護士となり、国政で活躍した経歴を紹介しています。
碑文には、国家と郷土の発展に尽くした人物として顕彰する言葉も刻まれています。
郷学の森には、楢橋のほか、石橋正二郎の胸像もあります。
戦後、東京の石橋邸で鳩山一郎らと交わった二人の久留米出身者が、今は同じ郷学の森で顕彰されていることになります。
もちろん、胸像が建てられているからといって、その人物の生涯すべてが肯定されるわけではありません。
楢橋には個人タクシー制度の推進などの実績がある一方、汚職事件で有罪判決を受けたという事実もあります。
郷土の偉人を知ることは、その功績だけを称賛することではありません。
時代背景や政治的な行動を含め、どのような人物だったのかを考えることも必要でしょう。
関連記事:久留米市・郷学の森の7人の銅像は誰!? 写真でつづる人物まとめ!!
映画『日本独立』|大鶴義丹が楢橋渡を演じた作品
楢橋渡は、2020年12月18日に公開された映画『日本独立』にも登場しています。
この映画は、終戦直後の日本を舞台に、GHQによる占領下で日本の独立回復を目指した政治家・吉田茂と、その側近として交渉に奔走した白洲次郎を中心に描いた歴史ドラマです。
監督は伊藤俊也。白洲次郎を浅野忠信、吉田茂を小林薫、幣原喜重郎を石橋蓮司が演じています。
そして、内閣法制局長官を務めた楢橋渡を演じているのが、大鶴義丹です。
映画では、日本国憲法の制定をめぐってGHQと日本政府が対峙した時代が描かれています。
楢橋渡が実際に政府中枢で活動していた時代を映像で知ることのできる作品です。
もちろん、映画は史実をもとに構成されたドラマであり、登場人物の発言や行動がすべて史実どおりというわけではありません。
それでも、楢橋が身を置いていた戦後日本の政治状況を理解するうえで、参考になる作品でしょう。
※Amazon Prime Videoでも配信されています。視聴条件や配信状況はAmazonでご確認ください。
まとめ|楢橋渡から見える久留米と戦後日本の政治
炭鉱労働者から独学で弁護士となり、国会議員を経て大臣にまで上り詰めた楢橋渡。
その人生は、昭和という時代を象徴するような波乱に富んだものでした。
1942年の翼賛選挙で初当選し、終戦後には日本自由党の結成に関わります。
幣原内閣では政府中枢に入り、GHQとの交渉や交流が行われる時代に活動しました。
運輸大臣としては個人タクシー制度の導入を推進しています。
しかし、その後は汚職事件で逮捕され、有罪判決を受けました。
一方、楢橋の周囲にいた鳩山一郎や河野一郎の家系は、現在も政治家を輩出しています。
また、息子の楢橋進と同じ旧福岡3区で活動した古賀誠からは、現在の福岡7区選出議員である藤丸敏へと、政治活動の系譜をたどることができます。
そして、楢橋渡と石橋正二郎という二人の久留米出身者が、戦後の東京で政治的な接点を持っていたことも見逃せません。
久留米は、単に政治家を国会へ送り出してきた街ではありません。
この街から出た人物たちは、戦後日本の政党政治や経済界との関係の中で、それぞれの役割を果たしてきました。
郷学の森に立つ楢橋渡の胸像は、そうした歴史の一端を今に伝えています。
一人の政治家の生涯をたどると、久留米という地方都市が、戦後日本の政治の中心とどのようにつながっていたのかが見えてきます。


