福岡県みやま市にある山門(ヤマト)をご存知でしょうか?
ヤマトといえば大体の人は奈良県の大和を思い浮かべると思いますが、ヤマト国は山門であるという説を発見しました。
江戸時代の高名な学者・新井白石による説です。
今回は、なぜヤマトが山門なのか、なぜヤマトが邪馬台国なのかについて紹介します。
邪馬台国は山門(ヤマト)!?福岡県みやま市山門へ行ってみた
まず、なぜ山門が邪馬台国だと言われはじめたのか紹介します。
新井白石と邪馬台国論争
邪馬台国は山門であるといったのは、様々な学問に通じていた江戸時代の学者・新井白石になります。
新井白石の著書「古史通或問」のなかで、語られています。
この著書は、日本で一番最初に邪馬台国の場所を論じたとされています。
新井白石は1657年生まれ、徳川幕府6代目と7代目の将軍に仕えていましたが、(暴れん坊将軍で有名な)8代目将軍・徳川吉宗が将軍に就くと幕府の役職から失脚し引退したとされています。
江戸時代にも邪馬台国論争がありました。
もちろんまだ学者内での論争です。
現在のように誰もが邪馬台国を論じ探すようになったのは、「まぼろしの邪馬台国」で有名な宮崎康平以降とされています。
江戸時代の邪馬台国論争の主役は、新井白石と本居宣長になります。
どちらも邪馬台国九州説になっています。
本居宣長は邪馬台国とヤマト国を別のクニと考えていたようですが、新井白石は同じものだと考えていたようです。
以前書きましたが、邪馬台国論争はヤマト国論争という側面があります。
邪馬台国がヤマト国であるなら、ヤマト国がどこにあったかを探すことで自ずと邪馬台国の場所もわかるということになります。
ヤマト国論争には東遷説というものがあります。元々九州のどこかにあったヤマト国が畿内に進出しヤマト王権を作ったという説です。
新井白石が東遷説を提唱していたかは定かではありませんが、全国の地名からヤマトを探し、この福岡の山門を見つけたことにより結果的には東遷説になっています。
山門と邪馬台国の関係性
ヤマト国と邪馬台国との関係については上記で簡単に触れました。
地名以外に山門がヤマト国であった理由や現在の町の様子について紹介します。
車塚古墳
多分、一番、関わりがあるとする根拠になっているのは、この車塚古墳だろうと思います。ちなみに明治時代までの旧称は女王塚と呼んでいたそうですが、大正2年の頃、古墳を分断する形で新道建設がなされたとき、皇室への忖度で蜘蛛塚へと改称されたそうです。
この女王塚(現・蜘蛛塚)は、日本書紀に記載されている田油津姫(たぶらつひめ)という山門郡の女王の墓だろうと言われています。
日本書紀の記述によれば、田油津姫(たぶらつひめ)は山門郡にいたとされる土蜘蛛族の巫女女王です。土蜘蛛族とは、どうにも仰々しい名前ですが、かなり古来から九州に入植していた中東系の民族であったとする説があります。手足が長いことから土蜘蛛族と呼ばれていたそうです。
4世紀半ば頃、神功(じんぐう)皇后は肥後の熊襲を討たんため、山門郡大和村(ヤマト郡ヤマト村でダブル・ヤマト!?)に上陸されたそうです。
下が有明海で、赤丸で囲んだあたりが大和村(現・柳川市大和町)になります。神功皇后は、矢印の方向に矢部川をあがり山門郡の女王に迫ります。
土蜘蛛族の田油津姫(たぶらつひめ)は女山(ぞやま)に籠り、肥後の熊襲と連携して、勢いがあったそうです。
しかし、神功皇后は、見事、討ち滅ぼしました。
以前書きました、この近くの八女地方にあります北部九州最大の前方後円墳の筑紫君磐井の時も、朝鮮半島をめぐる経緯がありました。
山門へGO
もしかしたら何か邪馬台国への手がかりがあるかもしれない、福岡県みやま市にある山門へ行ってみました。
※ちなみに、その時、国道沿いの看板を見て、ふと立ち寄った場所が前回書いた記事になります。
卑弥呼の里
国道209号線を熊本方面へ下っていると、いきなり「卑弥呼の里」という文字が目に飛び込んできました。
※上の赤丸が上記記事の「長田鉱泉」で、真ん中の青丸が「卑弥呼の里」になります。
いきなりの手がかりに期待が高まりました。早速、クルマを降りて立ち寄ってみました。
店内は、地元の特産品や野菜などが売られている道の駅のようになっていました。
卑弥呼や邪馬台国にまつわる商品や土産物はないかと探しましたが、特に見つかりませんでした。
ラーメン天照
さらに国道209号線を下っていくと、またもや何かしら邪馬台国と関係ありそうな文字が目に飛び込んできました。
ラーメン屋「天照」となっています。
ヤマト国が邪馬台国だとすれば、ヤマト朝廷は邪馬台国の発展であり、天照大神は卑弥呼であるかもしれません。多分、そういうことだろうと思います。
それから数時間後「道の駅みやま」に立ち寄った際、天照監修ラーメンがありましたから、卑弥呼を思いながら食べてみました。
みやま市図書館
上記のように何となく邪馬台国を感じられる2つの店舗があったものの、手がかりらしい手がかりがみつかりませんでした。
こういう時は、図書館に行くに限ると思いみやま市図書館へ向かいました。
館内に入ると、このような展示がありました。
6世紀後半の大和朝廷による国家事業とされていますから、磐井の乱の後になります。
郷土史コーナーに行くと、さすが、かなりの数の邪馬台国関連の本がありました。
まとめ
今回は、邪馬台国は山門な話を紹介しました。
みやま市の山門へ行きましたが、地名だけで考えると山門郡大和村(現・柳川市大和町)もかなり気になります。
卑弥呼はどこにいて、邪馬台国とはどこにあったのでしょうか?
田油津姫が中東系の土蜘蛛族だとすれば、卑弥呼も中東系だったのでしょうか?
仮に中東系の移民がいたとすると、古代日本列島にはどの程度の民族が共存していたのでしょうか?
謎は深まるばかりです。
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