久留米市と鳥栖市は、県境を挟んで隣り合う街です。
鳥栖市に住む人にとって久留米は身近な街であり、久留米市民にとっても鳥栖は特別に遠い場所ではありません。
買い物や通院などで行き来する人もいれば、鳥栖市内の工場や物流施設に勤める久留米市民もいます。
実際、鳥栖には轟木工業団地や鳥栖商工団地、グリーン・ロジスティクス・パーク鳥栖など、多くの企業が立地しています。
こうして考えると、一つの疑問が浮かびます。
なぜ鳥栖は福岡県ではなく、佐賀県なのでしょうか。
かつて久留米には「久留米県」という県が存在していました。しかし、その久留米県にも鳥栖は含まれていませんでした。
ところが、歴史を調べていくと意外な事実が見えてきます。
鳥栖は明治時代、久留米に県庁が置かれた「三潴県」に属していた時期があったのです。
現在の県境がどのように決まったのか、江戸時代の藩の支配から明治の廃藩置県までをたどります。
鳥栖と久留米は、もともと別の国だった
現在は隣接する久留米市と鳥栖市ですが、明治以前の行政区分では別の国に属していました。
- 久留米:筑後国
- 鳥栖:肥前国
筑後国は現在の福岡県南部にあたり、肥前国は現在の佐賀県と長崎県の一部にあたります。
江戸時代の久留米は、有馬氏が治める久留米藩の城下町でした。
一方、鳥栖は肥前国に属していたものの、現在の鳥栖市域全体が佐賀藩の領地だったわけではありません。
ここに鳥栖の歴史の特徴があります。
久留米藩の成立や領地については、久留米藩とは何だったのか|領地・統治・幕末の動乱から読み解く「筑後の構造」で詳しく解説しています。
鳥栖は佐賀藩と対馬藩に分かれていた
江戸時代、現在の鳥栖市域は大きく二つの藩によって治められていました。
| 現在の地域 | 江戸時代の領主 |
|---|---|
| 鳥栖市の東半分 | 対馬藩・宗氏 |
| 鳥栖市の西半分 | 佐賀藩・鍋島氏 |
| 基山町 | 対馬藩・宗氏 |
意外なのは、現在の鳥栖市東部と基山町が、遠く離れた対馬藩の領地だったということです。
1599年、対馬藩主の宗氏は肥前国の基肄郡と養父郡東部を領有するようになりました。
この地域は「田代領」と呼ばれ、対馬藩の飛び地として統治されました。
現在の田代小学校には対馬藩の代官所があった
対馬藩が田代領を統治するために設置したのが、田代代官所です。
代官所が置かれた場所は、現在の鳥栖市立田代小学校の校庭付近にあたります。
田代は長崎街道の宿場町でもあり、対馬藩の役人が領地を治める政治・経済の拠点でした。
一方、佐賀藩側には長崎街道の轟木宿がありました。
現在の鳥栖市内にある田代宿と轟木宿は、それぞれ別の藩に属していたのです。
両藩の境には轟木川が流れ、佐賀藩側には通行する人や荷物を調べる番所も設けられていました。
現在は同じ鳥栖市となっている地域にも、かつては藩境が存在していました。
1871年、久留米県が誕生したが鳥栖は含まれなかった
1871年(明治4年)、明治政府は廃藩置県を実施しました。
これによって久留米藩は廃止され、久留米県が誕生します。
しかし、このときの久留米県は、基本的に旧久留米藩の領地を引き継いだものでした。
一方、現在の鳥栖市域は次のようになりました。
- 旧佐賀藩領:佐賀県
- 旧対馬藩田代領:厳原県
厳原県は、現在の長崎県対馬市にあたる厳原に由来する県名です。
つまり、廃藩置県の時点でも、鳥栖は久留米とは別の行政区分に属していました。
1871年の廃藩置県は、都市のつながりを基準に県境を決めたものではありません。
旧藩の支配領域が、そのまま新しい県の枠組みの出発点になりました。
久留米県がどのように成立し、福岡県へ統合されたのかについては、既存記事の久留米はなぜ福岡県になったのか|久留米県・三潴県から現在までの流れで解説しています。
鳥栖は一時期、久留米と同じ三潴県だった
ここからが、鳥栖の歴史で特に興味深い部分です。
1871年11月、久留米県・柳河県・三池県が統合され、三潴県が誕生しました。
三潴県は筑後国一円を管轄する県です。
県庁は当初、現在の大川市に置かれていましたが、1872年3月には久留米両替町の旧久留米藩御使者屋に移転しました。
※この場所は、現在の久留米市役所東側にある両替町公園です。江戸時代には久留米藩の迎賓施設が置かれ、明治時代には三潴県庁、その後は久留米市役所として使用されました。
つまり、現在の久留米市役所周辺は、明治初期に鳥栖や佐賀を含む広い地域の行政を担った場所でもあったのです。
その後、1876年(明治9年)4月18日、明治政府は佐賀県を廃止し、三潴県へ編入しました。
この再編によって、現在の鳥栖市域も三潴県に属することになりました。
久留米と鳥栖だけではありません。佐賀市なども含めた広い地域が、久留米に県庁を置く三潴県の管轄に入ったのです。
ただし、この状態は長く続きませんでした。
同じ県だった期間は、わずか約4か月
1876年8月21日、三潴県は廃止されます。
そして、その領域は大きく二つに分けられました。
- 旧筑後国の地域:福岡県へ
- 旧佐賀県の地域:長崎県へ
久留米は福岡県となり、鳥栖は長崎県に属することになりました。
久留米と鳥栖が同じ三潴県に属していた期間は、1876年4月18日から8月21日まで、わずか約4か月でした。
※なお、当時はまだ鳥栖市という自治体は存在しておらず、ここでいう鳥栖は現在の鳥栖市域を指しています。
1883年、佐賀県が復活して現在の県境へ
1876年の三潴県廃止によって、鳥栖は長崎県に属することになりました。
しかし、これも最終的な区分ではありませんでした。
そもそも佐賀県が廃止された背景には、1874年(明治7年)に起きた「佐賀の乱」がありました。
佐賀の乱は、明治政府の政策に反発した江藤新平や島義勇らを中心とする旧佐賀藩士族による反乱です。
政府軍によって鎮圧され、江藤らは処刑されました。
その後も明治政府は、佐賀県を統治の難しい地域として警戒していました。旧藩士族と県庁の結び付きを断ち、中央政府による統制を強めることが、佐賀県を周辺県へ統合した背景の一つだったのです。
しかし、長崎県への編入後、佐賀では県庁が遠くなったことによる不便や、地域経済の衰退が問題視されるようになりました。
1882年(明治15年)には、佐賀県を復活させようとする「復県運動」が起こります。
この運動では「佐賀県を復するの議」という文書も作成され、県の再設置を求める声が上がりました。
そして1883年(明治16年)5月、佐賀県は長崎県から分離して再び設置されます。
これによって鳥栖も佐賀県に属することになり、現在につながる福岡県と佐賀県の県境が成立しました。
経緯をまとめると、次のようになります。
| 年 | 現在の鳥栖市域の主な所属 |
|---|---|
| 1871年7月 | 佐賀県・厳原県 |
| 1871年11月 | 伊万里県 |
| 1872年 | 佐賀県 |
| 1876年4月 | 三潴県 |
| 1876年8月 | 長崎県 |
| 1883年5月 | 佐賀県 |
この変遷を見ると、鳥栖が最初から現在まで一貫して佐賀県だったわけではないことがわかります。
久留米県には属しませんでしたが、久留米を県庁所在地とする三潴県に属した時期があり、さらに長崎県だった時代もあったのです。
現在の鳥栖と久留米は県境を越えた生活圏になっている
では、現在はどうでしょうか。
鳥栖市には工場や物流施設が集まり、久留米市から通勤する人もいます。
久留米市の都市計画関係資料を見ると、久留米市の通勤者のうち、鳥栖市へ通勤する割合は1985年の1.7%から2015年には4.0%へ増加していました。
これは2015年時点の国勢調査に基づく数字ですが、県境を越えた通勤の結び付きが強まってきたことを示しています。
一方、鳥栖から久留米へ向かう人にとっても、久留米は身近な商業・医療・生活の拠点となっています。
久留米市と鳥栖市は公式にも共通の生活圏とされている
実は、こうした両市の関係は自治体の行政施策にも表れています。
久留米市・小郡市・鳥栖市・基山町は、筑後川流域クロスロード協議会を通じて広域的な連携を進めています。
久留米市の公式ホームページでは、この3市1町を「共通の生活圏域を有する」地域と説明しています。
つまり、県境が異なっていても、都市としては一体的な発展や共通課題への対応が必要だと認識されているのです。
江戸時代には久留米藩、佐賀藩、対馬藩という別々の支配の下にあった地域が、現代では生活と経済によって強く結び付いています。
県境はそのままでも、人の移動や都市の機能は県境を越えて広がっているのです。
まとめ|鳥栖が佐賀県なのは歴史の結果であり、現在の生活圏とは別の話
鳥栖が福岡県ではなく佐賀県である理由をたどると、江戸時代の旧国と藩領、そして明治政府による県の統廃合に行き着きます。
鳥栖はもともと肥前国に属し、佐賀藩と対馬藩が治めていました。
廃藩置県で久留米県が誕生した際にも、その領域には含まれませんでした。
しかし、1876年には佐賀県が三潴県に編入され、久留米と鳥栖は一時的に同じ県になっています。
もし、この三潴県がそのまま存続していたら、現在の九州の県境は違った形になっていたかもしれません。
いま、久留米市民が鳥栖市の工場へ働きに行き、鳥栖市民が久留米へ買い物や用事で訪れることに、特別な違和感はありません。
行政上は福岡県と佐賀県に分かれていても、日々の暮らしの中ではつながっているからです。
県境を決めたのは歴史ですが、生活圏を形づくるのは、そこに暮らす人々です。
鳥栖と久留米の関係を見ると、150年ほど前に定められた行政区分と、現在の街の広がりが必ずしも一致しないことがよくわかります。


