久留米の地名の由来とは?来目氏・筑後古代史・東久留米との関係をわかりやすく解説

久留米の地名の由来 歴史と文化
この記事は約4分で読めます。

福岡県南部の中心都市、久留米市。

しかしこの「久留米」という地名、実は、はっきりした由来が分かっていません。

古代史を調べてみると

  • 来目氏(くめし)
  • 「米が集まる土地」説
  • 古代の湿地地名

など、いくつかの説が存在します。

さらに興味深いことに、東京には東久留米市という同じ名前の町もあります。

久留米という地名はどこから来たのでしょうか。

筑後古代史と地名研究の視点から、その謎を整理してみます。

スポンサーリンク

久留米という地名は古代には登場しない

まず重要なことがあります。

古代の資料では、久留米という地名はほとんど登場しません。

奈良時代の行政区画では、この地域は

  • 御井郡(みいぐん)
  • 水沼県(みぬまのあがた)

と呼ばれていました。

古代の久留米は「御井」と呼ばれていた

現在の久留米市周辺は、古代には「久留米」という地名ではなく、御井(みい)と呼ばれていました。

つまり古代筑後の中心地は、御井という名前で知られていたのです。

奈良時代の行政区画では、この地域は御井郡に属しており、筑後国の政治の中心地でもありました。

その証拠の一つが、久留米市合川町にある筑後国府跡です。

現在は石碑と案内板が立つだけの空き地ですが、かつてこの場所には筑後国の行政機関である国府が置かれていたと考えられています。

筑後国府跡の現在|久留米市合川町に残る古代筑後の中心地

しかし、奈良時代より前、古代には御井郡の政治拠点として機能していた可能性があります。

御井周辺には

  • 水沼君(みぬまのきみ)ー大善寺周辺
  • 筑紫君磐井ー八女周辺

などの古代豪族が存在していました。

御井には、筑後国一宮である高良大社もありますし、古代筑後王権の中心地域だったとも考えられます。

筑後国風土記に久留米は出てくるのか

奈良時代には、風土記という地方の歴史書が作られました。

その一つが

筑後国風土記

です。

しかしこの書物は、ほぼ完全に失われています。

現在分かるのは他の書物に引用された「逸文」だけです。

その断片には

  • 筑後川
  • 高良山
  • 玉垂命

などの話が残っていますが、久留米という地名の由来は確認されていません。

中世(鎌倉〜室町)になると「久留米」が登場

久留米の地名がはっきり確認されるのは、中世(鎌倉〜室町)頃の文書と言われています。

・荘園関係史料
・地誌
・城郭史料

この頃から、久留米(くるめ)という表記が出てきます。

実際に「久留米」という地名が完全に固定されるのは、もう少し年代がたってからです。

久留米城

久留米藩

これによって、都市名としての久留米が確定します。

久留米の地名の由来・有力説

よく言われている有力説を3つ紹介します。

有力説① 来目(くめ)氏の地名説

最もよく言われるのが

来目(くめ)説です。

来目氏とは大和政権の軍事氏族で、神話では神武天皇の東征に従った部民

久米部(くめべ)

として登場します。

地名研究では

くめ

くるめ

という音変化が起きた可能性が指摘されています。

ただし問題があります。

来目氏の本拠は

奈良県橿原市

と考えられているため、久留米との直接関係ははっきりしていません。

有力説② 「米が集まる土地」説

農業由来の説。

筑後平野は昔から九州有数の穀倉地帯でした。

そのため

米が集まる場所

来る米

久留米

という説。

ただしこれは民間語源的な説明で、歴史学では少し弱いと言われます。

有力説③ 地形説

もう一つの説は、地形由来説です。

古代語では湿地や水の集まる場所を

くるみ」「くるむ(包む)

のような音で呼んだ可能性があります。

筑後川流域は、古代から湿地が多い地域でした。

筑後川が流れ、水と平野に囲まれた土地という意味です。

そのため地形から生まれた地名という可能性も指摘されています。

東京の東久留米との関係

東京都には、東久留米市という市があります。

名前が同じなので福岡の久留米と関係があるのかと思われがちですが、古代的な関係はありません。

もともと武蔵国には、久留米村という地名がありました。

しかし福岡の久留米市と同名になるため、1970年の市制施行の際に東久留米という名前になりました。

久留米は古代王権の土地だった

久留米周辺には、古代史に関係する史跡が多く残っています。

例えば

  • 高良山
  • 大善寺玉垂宮
  • 御塚・権現塚古墳
  • 八女の岩戸山古墳

などです。

これらを見ていくと筑後地方には

複数の古代豪族が存在した王権

があった可能性が見えてきます。

つまり久留米は単なる地方都市ではなく、古代筑後の政治と信仰の中心地だった可能性があります。

関連記事
水沼君とは何者か
高良大社の祭神・玉垂命とは
御塚・権現塚古墳
大善寺玉垂宮
岩戸山古墳

まとめ

久留米という地名の由来は現在のところ、はっきりした結論は出ていません。

有力な説としては

  • 来目氏説
  • 「米が集まる土地」説
  • 地形説

などがあります。

ただし古代の資料では久留米ではなく、「御井・水沼」という地名が使われていました。

「久留米」という地名は、中世頃に現在の表記が出現し、久留米藩により定着したと考えられています。地名は、音由来のことが多いため、もともと「くるめ」という呼び名があり、後から「久留米」という漢字が当てられた可能性もあります。

筑後古代史を調べていくと、この地域には多くの未解明の歴史が残されています。

久留米の地名の謎も、その一つなのかもしれません。

「久留米」という地名には、古代から続くこの土地の歴史が刻まれています。

現在の久留米は、歴史と文化を感じられる街であると同時に、生活の利便性も高い都市として知られています。

久留米の観光スポットについては、こちらの記事でまとめています。

また、実際に久留米で暮らしてみたい方や新生活を考えている方は、こちらの記事も参考にしてみてください。

タイトルとURLをコピーしました