2027年春に予定される福岡県議会議員選挙の筑後市選挙区に、牛島慶二郎氏が立候補する意向を表明しました。
筑後市選挙区では、蔵内勇夫氏が1987年の初当選以来、10回連続で議席を守っています。現在も福岡県議会議長を務めており、報道では「福岡県議会のドン」と呼ばれることもあります。
そのため牛島慶二郎氏の立候補は、長期在職する蔵内氏への対抗馬が現れたとして、大きく取り上げられました。
しかし、牛島氏は筑後市の政治と無関係な場所から突然現れた候補者ではありません。
父の牛島巌氏は、かつて筑後市議会議員を務め、その後、福岡県議会議員へ進んだ人物です。
牛島巌氏は政治家であると同時に、現在のUG+につながる牛島家の事業基盤を築いた事業家でもありました。
その歩みをたどると、牛島家の事業は、最初から自動車学校や福祉施設を経営していたわけではないことが分かります。
紳士服の仕立てから呉服の卸売業へ転じ、自動車学校を買収し、さらに経営難だった福祉法人を引き継ぎました。
牛島巌氏とは、どのような人物だったのでしょうか。
そして、現在の県議選を「蔵内王国に新人が挑む物語」としてだけ捉えることは、本当に正確なのでしょうか。
牛島商店は紳士服の仕立てから始まった
牛島家の事業の始まりは、牛島商店でした。
牛島商店は当初、紳士服の仕立てを行っていました。
その後、呉服の卸売業へ商売替えし、事業の基礎を築いていきます。
現在の牛島家の事業からは、自動車学校や福祉施設、幼稚園、保育園といった姿が強く見えます。
しかし、その出発点は福祉でも教育でもなく、衣料品を扱う商売でした。
牛島巌氏は、代々続く巨大企業をそのまま受け継いだ人物ではありません。
時代や地域の需要を見ながら商売の形を変え、異なる分野へ進出していった事業家だったと考えられます。
筑後市議会議員から福岡県議へ
牛島巌氏の政治歴は、福岡県議から始まったわけではありません。
牛島氏は、まず筑後市議会議員を務めました。
その後、筑後市選挙区から福岡県議会議員となり、政治活動の舞台を市政から県政へ移しています。
この市議から県議へという経歴は、牛島氏の事業形成を考えるうえでも重要です。
牛島氏は、地域政治と無関係な事業家が後から県議になったのではありません。
市議として筑後市の政治に関わりながら、同じ時期に事業の拡大を進めていました。
政治家としての歩みと事業家としての歩みは、時間的に重なっていたことになります。
1971年、市議時代に自動車学校を買収
牛島巌氏は1971年、昭和46年に自動車学校を買収しました。
現在のUG+につながる筑後自動車学校です。
重要なのは、牛島氏が自動車学校を最初から設立したのではなく、すでに存在していた学校を買収して経営を引き継いだ点です。
牛島巌氏は当時、筑後市議会議員を務めていました。
つまり、市議として地域の意思決定に関わる一方で、自動車学校という新たな事業へ進出したことになります。
自動車学校は一般の民間企業ですが、指定自動車教習所は県公安委員会や警察行政との接点を持つ事業でもあります。
だからといって、牛島氏が市議の立場を利用して自動車学校を買収したとは言えません。
現在確認できる資料から、そのような不正な関係は確認できません。
しかし、政治家として活動していた時期に、行政との接点を持つ事業を取得したという事実は、牛島氏の経歴を考えるうえで無視できない要素です。
1974年、経営難だった素王福祉会を引き継ぐ
自動車学校の買収から3年後の1974年、昭和49年、牛島巌氏は経営難に陥っていた社会福祉法人素王福祉会を引き継ぎました。
同法人は特別養護老人ホーム芳樹園を運営していました。
現在、芳樹園は社会福祉法人幸輪福祉会の施設として運営されています。
幸輪福祉会は現在、芳樹園をはじめ、高齢者施設、障害者支援施設、地域包括支援センター、有料老人ホーム、保育事業など、複数の福祉事業を展開しています。代表者は牛島護巌氏です。
ここでも、牛島巌氏は一から福祉法人を作ったわけではありません。
すでに存在していたものの、経営が難しくなっていた法人と施設を引き継ぎました。
紳士服の仕立てから呉服卸へ転じ、自動車学校を買収し、さらに経営難の福祉法人を承継する。
牛島氏の事業形成には、既存の事業を取得し、立て直しながら拡大するという特徴が見えます。
商売替えと事業承継で築いた牛島家の基盤
牛島家の事業の歩みを並べると、次のようになります。
紳士服の仕立て
呉服の卸売業
自動車学校の買収
社会福祉法人と芳樹園の承継
福祉・教育分野への事業拡大
牛島巌氏は、一つの業種を長く守った経営者というより、異なる分野へ次々に進出した人物でした。
しかも、自動車学校と福祉法人は、どちらも既存事業を引き継いだものです。
これは、牛島氏に事業再建や組織運営の能力があったことを示しているとも考えられます。
一方で、自動車学校、福祉施設、保育園、幼稚園はいずれも、地域住民の生活と密接に関係する事業です。
地域の雇用、福祉、教育、交通安全に関係する複数の組織が、牛島家の周辺に形成されていきました。
事業が広がるほど、地域社会における牛島家の存在も大きくなったと考えられます。
政治家と事業家という二つの顔
牛島巌氏は、筑後市議から福岡県議へ進みました。
その一方で、市議時代から自動車学校や福祉法人の経営に関係していました。
議員が民間企業や法人を経営すること自体は、直ちに違法ではありません。
また、牛島氏が政治家としての立場を利用し、自らの事業に不正な利益をもたらしたという事実も、現在確認できる公開資料からは見つかっていません。
しかし、政治家として行政の意思決定に関わる人物が、行政の許認可や補助制度、監督と接点を持つ事業を経営する場合、利益相反がなかったかという視点は必要です。
自動車学校は公安委員会や警察行政と関係します。
社会福祉法人や特別養護老人ホームは、行政の認可や補助、福祉政策と深く関係します。
幼稚園や保育園も、公的制度や補助と無関係ではありません。
牛島氏が市議や県議として、これらの事業に関係する政策、予算、行政判断にどのように向き合っていたのか。
政治活動と一族の事業は、どのように分けられていたのか。
不正があったと決めつけるべきではありません。
同時に、何も調べずに問題がなかったと考えるべきでもないでしょう。
1983年、蔵内勇夫氏の最初の挑戦を退ける
蔵内勇夫氏が初めて福岡県議選に立候補したのは1983年です。
当時の筑後市選挙区には、現職県議だった牛島巌氏がいました。
この選挙で牛島氏は1万38票、蔵内氏は9296票を獲得しました。
得票差は742票でした。
牛島氏は蔵内氏を破り、県議の議席を守りました。
現在では、筑後市選挙区は蔵内氏の地盤として知られています。
しかし、蔵内氏が初めて立候補した時点では、すでに牛島氏という現職県議と、その政治的、経済的な基盤が存在していました。
蔵内氏は何もない場所に地盤を作ったのではありません。
牛島氏が持っていた議席に挑み、一度敗れた後、再び選挙に挑戦したことになります。
1987年、牛島巌から蔵内勇夫へ
1987年の福岡県議選で、蔵内勇夫氏は再び筑後市選挙区から立候補しました。
この選挙で蔵内氏は牛島巌氏を破り、初当選します。
奥田八二元福岡県知事の日記にも、筑後市について、
「前回の牛島氏に代って今回は蔵内氏が県議に当選」
という趣旨の記録が残されています。
これは、単に県議が一人交代した出来事ではありません。
市議から県議へ進み、事業家としても地域に基盤を築いていた牛島氏から、蔵内氏へ議席が移りました。
現在「蔵内王国」と呼ばれている政治的な地盤は、1987年に牛島氏を破ったところから始まっています。
言い換えれば、筑後市には蔵内勇夫氏以前にも、政治と地域事業を結ぶ有力者が存在していたことになります。
県議落選後も地域経済界で活動
牛島巌氏は県議選に敗れた後も、筑後市の地域社会から姿を消したわけではありません。
その後、筑後商工会議所会頭や筑後市観光協会会長などを務めました。
2000年には筑後商工会議所会頭として、「これからの商工業について」と題する講演を行った記録が残っています。
県議の議席を失っても、牛島氏の影響力は、企業経営や商工会議所など別の形で続いていたと考えられます。
牛島氏は2006年、平成18年に69歳で亡くなりました。
政治家としては蔵内氏に議席を奪われましたが、事業家として築いた基盤は、次の世代へ引き継がれています。
牛島護巌が事業を承継
牛島家の事業を引き継いだのが、牛島護巌氏です。
「護巌」は「もりよし」と読みます。
牛島護巌氏は1974年生まれです。
1974年は、牛島巌氏が経営難だった素王福祉会と芳樹園を引き継いだ年でもあります。
護巌氏は大学卒業後、すぐに家業へ入ったわけではなく、会社員として働いていました。
その後、父である牛島巌氏ががんで倒れたことをきっかけに、牛島家の事業へ戻り、経営を引き継ぎました。
護巌氏自身も、父を「ワンマン創業社長」と表現し、父親の病気によって突然経営に携わることになった経緯を語っています。
現在、牛島護巌氏はUG+の代表として、自動車学校や福祉、教育に関係する事業を率いています。
父の牛島巌氏が築いた事業基盤は、護巌氏の代でも続いています。
牛島護巌と牛島慶二郎は兄弟
2008年の福岡県公報には、牛島巌氏の相続人として、牛島慶子氏、牛島護巌氏、牛島慶二郎氏が記載されています。
その相続持分から、牛島慶子氏が妻、牛島護巌氏と牛島慶二郎氏が息子であり、両氏は兄弟とみられます。
現在、牛島護巌氏は牛島家の事業を引き継ぎ、牛島慶二郎氏は福岡県議選への立候補を表明しています。
父の牛島巌氏は、一人で事業家と政治家という二つの役割を担っていました。
次の世代では、護巌氏が事業を担い、慶二郎氏が県政を目指す形になっています。
これが家族内で意図的に決められた役割分担なのかは分かりません。
ただ、結果として見れば、牛島家の事業基盤を持つ兄と、県議を目指す弟という構図が生まれています。
牛島慶二郎氏は「政治と無縁の新人」ではない
牛島慶二郎氏は、父・牛島巌氏と同じ政治を行うと決まったわけではありません。
兄が家業を経営しているからといって、牛島慶二郎氏の政治活動が、直ちに牛島家の事業利益を代表するものになるわけでもありません。
親や兄弟の経歴だけで、本人の資質を判断するべきではないでしょう。
一方で、牛島慶二郎氏を、筑後市の既存政治と無関係な新人として扱うことも正確ではありません。
父は筑後市議から福岡県議へ進みました。
市議時代には自動車学校を買収し、さらに経営難だった福祉法人を引き継ぎました。
県議落選後には筑後商工会議所会頭を務めました。
兄の牛島護巌氏は、現在も牛島家の事業を率いています。
牛島慶二郎氏には、政治家だった父と、地域に広がる一族の事業基盤があります。
今回の立候補は、政治や地域経済と無関係な市民が突然立ち上がったものではありません。
1980年代に蔵内勇夫氏と議席を争った牛島家が、約40年後に再び同じ県議選へ戻ってきたという側面があります。
関連記事:牛島慶二郎とは何者なのか|父は元県議、ハワイ移住と筑後市県議選への立候補
「蔵内王国への挑戦者」という物語
長期在職する政治家に対抗馬が現れることは、選挙にとって重要です。
筑後市選挙区では長期間にわたって無投票当選が続き、有権者が複数の候補から県議を選べない状態が続いてきました。
2023年には北島一雄氏が立候補し、約20年ぶりに選挙が行われました。
北島氏は8237票を獲得し、蔵内氏との得票差は1652票でした。
蔵内氏以外の候補を求める有権者が相当数存在することは、すでに選挙結果として示されています。
前回2023年の福岡県議選・筑後市選挙区で、北島一雄氏が蔵内勇夫氏にどこまで迫ったのかについては、こちらの記事で詳しく整理しています。
関連記事:20年間無投票だった筑後市と「選べない」県議選|蔵内勇夫と北島一雄の得票差
その後、蔵内氏をめぐる複数の問題が報じられ、牛島慶二郎氏が県議選への立候補を表明しました。
報道では、長期間議席を守ってきた蔵内氏と、そこに挑む牛島氏という構図が作られています。
分かりやすい構図です。
しかし、その物語では、父・牛島巌氏の政治歴や牛島家の事業基盤がほとんど見えません。
牛島巌氏もまた、筑後市議から福岡県議へ進んだ政治家でした。
市議時代から自動車学校や福祉法人に関係し、県議落選後も商工会議所会頭として地域経済界で活動しました。
蔵内氏以前の筑後市に、政治的、経済的な影響力を持つ人物がいなかったわけではありません。
「蔵内王国」以前には、牛島巌氏を中心とする別の地域基盤が存在していた可能性があります。
蔵内勇夫氏以外なら誰でもよいのか
蔵内勇夫氏をめぐって報じられている問題は、事実関係を解明し、政治的な責任を問う必要があります。
長期在職する県議に対抗馬が現れることも、有権者の選択肢を増やすという意味で重要です。
しかし、蔵内氏に問題があるからといって、蔵内氏に対抗する候補が自動的に適任者になるわけではありません。
対抗馬が現れたときに必要なのは、無条件の称賛ではなく、その人物についても同じように調べることです。
どのような経歴を持っているのか。
どのような企業や団体と関係しているのか。
一族が地域でどのような事業を行っているのか。
県議になった場合、その事業と県政との間に利益相反が生じないのか。
どのような政策を掲げ、誰の利益を代表しようとしているのか。
こうした問いは、蔵内氏だけでなく、牛島慶二郎氏にも向けられるべきです。
政治家を検証するとは、一人の悪役を見つけ、その反対側にいる人物を無条件に正義とみなすことではありません。
現在の報道は、蔵内勇夫氏を詳しく追及する一方で、対抗馬の背景については十分に伝えていません。
それでは、有権者に新しい選択肢を示したことにはなっても、その選択肢を判断するための材料を示したことにはなりません。
牛島慶二郎氏が立候補を表明したことで、筑後市の県議選は新しい局面に入りました。
しかし、選択肢が現れたことは、判断の終わりではありません。
そこから候補者を調べることが、本当の選挙の始まりです。
