筑後地方の古代史を調べていると、ある豪族の名前が時折登場します。
それが、水沼君(みぬまのきみ)です。
しかし実際に調べてみると、驚くほど情報がありません。
- 日本書紀
- 続日本紀
- 筑後国風土記(逸文)
などに断片的に登場するだけで、詳しい歴史はほとんど残されていないのです。
では、この水沼君とは一体どのような豪族だったのでしょうか。
久留米周辺に残る
- 御塚・権現塚古墳
- 大善寺玉垂宮
- 高良大社
などの史跡を手がかりに、筑後の古代史の中で水沼君の位置を考えてみます。
水沼君とは「水沼県」を支配した豪族
古代日本には、県(あがた)という行政区画がありました。
これは大和政権が完全に地方を支配する以前、地域ごとの豪族が統治していた政治単位です。
筑後地方にも
水沼県(みぬまのあがた)
という地域がありました。
この水沼県を支配していた豪族が
水沼君
と考えられています。
水沼県の中心は
- 久留米南部
- 三潴
- 大善寺
- 大木町周辺
とされており、現在の筑後川下流域とほぼ一致します。
御塚・権現塚古墳と水沼君
久留米市大善寺には
御塚・権現塚古墳
という古墳があります。
この古墳は
- 前方後円墳
- 古墳時代前期〜中期
と考えられており、筑後地方でも比較的大きな古墳です。
この地域が水沼県の中心であったことを考えると
水沼君の墓である可能性
も指摘されています。
確定した証拠はありませんが、少なくともこの地域に
有力豪族の拠点
が存在したことは間違いありません。
磐井以前の筑後王権
筑後地方の古代史で最も有名な人物は
筑紫君磐井
です。
6世紀初頭、磐井は
磐井の乱(527年)
を起こし、大和政権と戦いました。
その拠点とされるのが
▶ 岩戸山古墳
です。
しかし磐井が突然現れたとは考えにくく、その前から筑後には複数の豪族が存在していたはずです。
その一つが
水沼君
だった可能性があります。
つまり
水沼君
↓
筑紫君磐井
という形で、筑後の王権が移った可能性です。
水沼君の神・玉垂命
久留米市大善寺には
▶ 大善寺玉垂宮
があります。
この神社の祭神は
玉垂命(たまたれのみこと)
です。
そしてこの神は
高良大社の主祭神
でもあります。
つまり
玉垂命信仰は
- 大善寺
- 高良山
にまたがって存在しています。
もし大善寺地域が水沼県の中心だったとすると
玉垂命は水沼君の神
だった可能性があります。
なぜ玉垂命を高良山へ移したのか
ここで一つの疑問が生まれます。
もし玉垂命が水沼君の神であったなら、なぜ高良山へ移されたのでしょうか。
いくつかの仮説が考えられます。
仮説1
筑後王権の象徴として神を移した。
新しい支配者が既存の神を取り込むことは古代ではよくありました。
つまり
水沼君の神
↓
筑後全体の神
として再編された可能性です。
仮説2
磐井勢力との関係。
磐井が筑紫の王であったなら、筑後の信仰も再編された可能性があります。
玉垂命が高良山に祀られたのも、その政治的背景があったのかもしれません。
仮説3
物部氏の影響。
磐井の乱の後、筑紫の支配権は
物部氏
に移ったとされています。
その結果、神社の祭神や信仰体系も変化した可能性があります。
高良山の神の変化
高良山にはもともと
高樹神
が祀られていたという伝承があります。
その神は現在
▶ 高樹神社
として麓に祀られています。
つまり高良山では
- 高樹神
- 玉垂命
という二つの神の関係があり、その背景には筑後の政治変動があった可能性があります。
水沼君の歴史が消えた理由
水沼君についての史料が少ない理由として、いくつかの可能性が考えられます。
- 磐井勢力に吸収された
- 大和政権により再編された
- 神話や神社の中に姿を変えた
古代史では
敗れた勢力の記録は残りにくい
と言われています。
そのため、水沼君の歴史も断片的にしか残らなかったのかもしれません。
まとめ
水沼君は
筑後国の古代豪族
と考えられていますが、史料は非常に少なく、その実像はよく分かっていません。
しかし
- 御塚・権現塚古墳
- 大善寺玉垂宮
- 高良大社
などを見ていくと、筑後地方には複数の勢力が存在した古代王権があった可能性が見えてきます。
水沼君の歴史は、筑後の古代史の中でもまだ解明されていない部分です。
今後の考古学研究によって、新しい事実が明らかになるかもしれません。
水沼君の拠点と考えられる古墳として、久留米市には御塚・権現塚古墳があります。
その姿を現地写真とともに紹介しています。
▶ 御塚・権現塚古墳

