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中島平太郎とは|久留米が生んだ「CDの父」と石橋文化ホールの知られざる関係

中島平太郎 久留米 CDの父 ゆかりの人

※Amazonのアソシエイトとして、久留米ジャーナルは適格販売により収入を得ています。

福岡県久留米市から、世界の音楽の聴き方を変えた技術者が生まれています。

中島平太郎(なかじま・へいたろう)。

ソニーでコンパクトディスク(CD)の開発を主導し、「CDの父」と呼ばれた人物です。

1982年に発売されたCDは、それまで主流だったレコードに代わり、音楽の記録・再生方法を大きく変えました。その技術は、後にコンピューターやゲームなどの分野にも広がっていきます。

しかし、中島平太郎の人生をたどると、世界的な技術者という経歴だけでは見えてこない、故郷久留米との深い関係が浮かび上がります。

旧制中学明善校で学び、戦後の久留米市公会堂で聴いたバイオリン演奏に衝撃を受け、後には石橋文化ホールの音響設計にも携わりました。

久留米の中央公園近くにある「郷学の森」には、現在も中島平太郎の胸像が建てられています。

なぜ久留米出身の青年は、世界的な音響技術者になったのでしょうか。

本人が晩年に残した回顧録を手がかりに、その生涯と久留米との関係を見ていきます。

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中島平太郎とは|CDの父と呼ばれた技術者

中島平太郎は、1921年3月19日に福岡県久留米市で生まれました。

旧制中学明善校、明治専門学校を経て東京工業大学を卒業。その後、九州大学で音響研究を行い、1947年にNHKに入局しました。

NHKではマイクロホンやスピーカー、デジタル録音技術などの研究に従事しました。

1971年にはソニーへ移り、オランダのフィリップスとの共同開発によって誕生したCDの実用化に重要な役割を果たします。

その後はアイワの社長などを務め、1993年にはCD開発の功績で紫綬褒章を受章しました。

2017年12月9日、96歳で亡くなっています。

中島はCDを一人で発明したわけではありません。多くの技術者が参加した共同開発を牽引し、デジタル音楽を一般家庭へ届けることに貢献した人物です。

久留米の商店に生まれ、旧制中学明善校へ

幼少期は体が弱かった

中島は晩年に執筆した回顧録『音との付き合い70年』の中で、久留米での幼少期を詳しく振り返っています。

生家は久留米市の外れにあり、日用品や食料品を扱う小さな商店でした。

父親が商品の仕入れや配送を担当し、母親が店を切り盛りしていたといいます。

意外なことに、幼いころの中島は虚弱体質でした。

小学校低学年までは体調を崩すことが多く、学校を休みがちだったそうです。

そこで母親は、毎朝のラジオ体操や散歩、山歩きなどに付き合い、息子の体力づくりを支えました。

中学明善校に進学するころには、皆勤賞を取れるほど健康になったといいます。

明善校から明治専門学校、東京工業大学へ

中島が学んだ中学明善校は、現在の福岡県立明善高校につながる旧制中学校です。

明善の歴史は、1783年に久留米藩が設置した学問所にまでさかのぼります。

中島はその明善校から、現在の九州工業大学の前身にあたる明治専門学校へ進学しました。

さらに1942年、東京工業大学へ進学します。

東京工業大学では、八木アンテナで知られる八木秀次から『音響科学』という専門書を譲り受けました。

中島はこの本を大切に保管し、その後の研究人生における重要な一冊になったと振り返っています。

ただし、当初から音楽用CDのような技術を目指していたわけではありません。

戦時中は電波の研究に携わりましたが、次第に音響の分野へ進みたいと考えるようになります。

1944年に東京工業大学を卒業すると、九州大学の大学院特別研究生となり、再び久留米から福岡へ通う生活を始めました。

関連記事:明善高校とは|久留米藩の藩校から続く240年の歴史と著名な出身者

久留米市公会堂で聴いたバイオリンが人生を変えた

中島平太郎の人生において、大きな転機となった場所があります。

それが、かつての久留米市公会堂です。

終戦後、中島は九州大学で研究を続けていましたが、将来の進路について悩んでいました。

そんなとき、世界的に知られたバイオリニスト、諏訪根自子(すわ・ねじこ)の演奏会が久留米市公会堂で開かれることになります。

中島は生まれたばかりの長男を両親に預け、妻とともに公会堂へ向かいました。

建物は戦争をくぐり抜けていましたが、隙間だらけの寒い会場だったといいます。

しかし、会場は観客の熱気に包まれていました。

そして、中島は初めて聴いた生のバイオリン演奏に圧倒されます。

当時、家庭で音楽を聴く手段といえば、SPレコードを再生する蓄音機やラジオが中心でした。

そこから流れる音と、目の前で響くバイオリンの音は、あまりにも違っていました。

もっと生演奏に近い音を家庭でも再現できないだろうか。

中島は、その技術を研究することこそ自分の生涯の仕事ではないかと考えるようになります。

演奏会の帰り道、夫妻はほとんど言葉を交わすことなく、月明かりの下を歩いて帰ったと回顧録に記しています。

世界の音楽を変えることになる技術者の原点は、戦後間もない久留米の公会堂にあったのです。

久留米市公会堂は現在もあるのか

中島が演奏を聴いた久留米市公会堂は、現在は残っていません。

公会堂は1930年に開館した施設で、現在の久留米市役所付近にありました。

老朽化に伴って建て替えられ、1969年には同じ場所に久留米市民会館が開館します。

この市民会館も2016年に閉館し、その後解体されました。

つまり、中島が人生の転機を迎えた公会堂も、その後継施設である市民会館も、現在は姿を消しているのです。

同じ場所で初舞台を踏んだ黒木瞳

実は、この場所にはもう一つ興味深い人物とのつながりがあります。

八女市出身の女優・黒木瞳です。

黒木瞳は八女高校の演劇部に所属していたころ、久留米市民会館で初めて舞台に立ったと語っています。

中島が音響技術への道を決意した久留米市公会堂。

そして、その跡地に建てられた市民会館で初舞台を経験した黒木瞳。

時代も建物も異なりますが、同じ場所が、一人の技術者と一人の女優にとって、その後の人生につながる舞台となっていたのです。

関連記事:黒木瞳とは何者か|八女市での生い立ちと五木寛之との関係

NHKでデジタル録音技術を研究|東京オリンピックの音響も担当

1947年、中島はNHKに入局しました。

最初の赴任先は熊本中央放送局でしたが、1949年にはNHK技術研究所へ移り、本格的に音響技術の研究を始めます。

マイクロホンやスピーカーなど、放送に必要な音響機器の開発に取り組みました。

1964年の東京オリンピックでは、開会式の音響システムにも関わっています。

国立競技場で昭和天皇の開会宣言を明瞭に届けるため、声の特性を分析し、スピーカーからの音がマイクに回り込むハウリングを防ぐ工夫などを行いました。

さらに中島は、従来の録音技術が抱えていた問題にも取り組みます。

当時のテープレコーダーは、テープの走行速度のわずかな変動や雑音によって、録音した音の品質が損なわれることがありました。

そこで注目したのが、音をデジタル信号に変換して記録するPCM技術です。

しかし、研究は順調だったわけではありません。

必要な予算や人員を十分に確保できず、既存の機材や研究体制を工夫しながら進められました。

中島はこうした取り組みを、後に「もぐり研究」と振り返っています。

1969年にはステレオのデジタル録音機を公開しました。

この研究が、後のCD開発につながる技術的な基盤となっていきます。

関連書籍:中島平太郎・著『オーディオに強くなる: 新しい音の創造』

石橋文化ホールの音響設計を担当|久留米への恩返し

中島平太郎と久留米の関係で、もう一つ重要なのが石橋文化ホールです。

久留米市野中町にある石橋文化センターは、1956年にブリヂストン創業者の石橋正二郎が久留米市へ寄贈した文化施設です。

その後、1963年には石橋文化ホールが完成しました。

実は、このホールの音響設計に中島平太郎が深く関わっていました。

石橋幹一郎、菊竹清訓、中島平太郎の3人

1962年、石橋正二郎が構想していた本格的な音楽ホールの建設計画が具体化します。

設計にあたってNHK技術研究所に協力が求められ、中島も参加することになりました。

中島の回顧録によると、計画を中心となって進めたのは次の3人でした。

  • 石橋幹一郎:石橋正二郎の長男。当時のブリヂストン副社長で、中島の中学明善校時代の1年先輩。
  • 菊竹清訓:久留米出身の建築家。中島の妻の遠縁にあたる人物。
  • 中島平太郎:NHK技術研究所の音響技術者。ホールの音響設計を担当。

ここでも明善校の人脈が登場します。

石橋幹一郎と中島平太郎は、同じ学校で学んだ先輩と後輩だったのです。

また、中島の妻・春日の実家は、久留米で書店や書籍卸売業を営んでいた菊竹金文堂でした。

久留米の企業家、建築家、音響技術者がそれぞれの専門性を持ち寄り、音楽ホールの建設に取り組んだことになります。

音が美しく響くホールを目指した

石橋文化ホールの設計で目指したのは、演奏者にとって弾きやすく、観客にとって聴きやすい空間でした。

音が適切に反射し、客席全体へ届くこと。

一方で、反射した音が重なって聞こえたり、一部の場所に音が集中したりしないこと。

そのため、中島は天井や側壁に設ける反射板の向きや配置に苦心しました。

1963年5月3日、石橋文化ホールは九州交響楽団によるチャイコフスキー『白鳥の湖』の公演で幕を開けます。

中島は東京で音響効果が良好だったという報告を受け、胸をなで下ろしたと振り返っています。

同年7月にはNHK交響楽団の演奏会も開催されました。

久留米市民に親しまれてきた石橋文化ホールの音響には、CDの父と呼ばれた中島平太郎の技術が生かされていたのです。

関連記事:久留米・石橋文化センターの見どころまとめ|美術館・庭園・散策ガイド

関連記事:石橋正二郎は何を久留米に残したのか|文化・産業・教育・医学・政治

50歳でソニーへ|世界初のCDプレーヤー開発に携わる

1971年、中島平太郎はNHKを離れ、ソニーに移ります。

50歳での新たな挑戦でした。

ソニー創業者の井深大に迎えられ、技術研究所の所長としてデジタルオーディオの研究を進めます。

当時の音楽再生の中心はアナログレコードでした。

中島らが目指したのは、音をデジタル信号として記録し、雑音や音質の劣化を抑えながら再生できる新しい音楽媒体です。

1970年代後半、ソニーはオランダのフィリップスと共同で光ディスクによる音楽媒体の開発を進めることになります。

CDの大きさはなぜ12センチなのか

CDの開発では、単に新しいディスクを作るだけでなく、世界中のメーカーが共通して使える規格を決める必要がありました。

しかし、ソニーとフィリップスの間では、ディスクの大きさや音質、収録時間について意見の違いがありました。

フィリップスは直径11.5センチ、収録時間60分などを提案していました。

一方、ソニー側はより高音質で長時間の収録を目指します。

最終的には、直径12センチ、最大収録時間約75分、16ビットのデジタル音声などが採用されました。

中島をはじめとする技術者たちは、この新しい規格を実際の製品として成立させるため、さまざまな課題に取り組みました。

光ディスクを読み取る半導体レーザー、レンズ、信号処理技術、記録媒体の材料など、開発すべき技術は数多くありました。

そして1982年10月1日、ソニーは世界初の商用CDプレーヤー「CDP-101」を発売します。

音楽をデジタルで記録し、ディスクに収めて家庭で再生する時代が始まったのです。

その後、CDは世界中に普及しました。

さらにCD-ROMなどへ技術が展開され、コンピューターのソフトウェアやゲームの記録媒体としても活用されるようになります。

久留米市公会堂で生演奏に感動した青年が、数十年後には世界の音楽の聴き方を変える技術の実用化を主導していたのです。

関連書籍:中島平太郎、小川博司・著『図解CD読本』

CD開発後も続いた技術への挑戦

CDの開発後、中島はアイワの社長などを務めました。

さらに、データを書き込めるCD-Rの開発・普及にも関わります。

音楽用CDは、工場で記録された内容を再生する媒体でした。

これに対してCD-Rは、利用者が自分でデータを書き込めるという特徴を持っています。

中島は1989年、CD-R関連事業を手がけるスタート・ラボの社長に就任しました。

1993年には、CD開発の功績が認められて紫綬褒章を受章しています。

その後も音響技術への関心を失うことなく、スピーカーの研究などを続けました。

筑後川大水害で失われた故郷の記録

中島の人生には、久留米の歴史と直接結びつく出来事もありました。

1953年6月に発生した筑後川大水害です。

この水害では筑後川の堤防が決壊し、久留米市を含む筑後地方一帯が大きな被害を受けました。

中島の生家も被災し、建物の2階の腰板付近まで水が押し寄せました。

青春時代の写真や記録は、家財とともに失われてしまったといいます。

晩年の回顧録では、そのため自分の記憶を頼りに生涯を振り返っていることが記されています。

それでも中島は故郷への思いを持ち続けました。

時間を見つけては耳納山地を訪れ、筑後川にも足を運んだといいます。

そして、自らが育った久留米への恩返しとして、石橋文化ホールの音響設計などに携わりました。

世界的な仕事を成し遂げた後も、中島の心には久留米の山や川、そして街の記憶が残っていたのです。

関連記事:久留米と筑後川の水害史

明善高校での講演と「くるめふるさと大使」

中島は晩年まで、故郷久留米との交流を続けました。

2000年代には、東京在住の久留米出身者と地元の行政・経済界を結ぶ交流会に参加し、「くるめふるさと大使」も務めました。

2004年には久留米で異業種交流をテーマにした講演を行い、CDの開発に多くの異業種企業の技術が必要だった経験を語っています。

また、母校である明善高校の創立記念行事にも招かれ、「音を楽しむ」と題して講演しました。

音響技術を志したきっかけから、石橋文化ホールの音響設計、CDの開発まで、自らの経験を後輩たちに伝えています。

本人の回顧録によると、講演は熱が入りすぎて予定時間を30分も超えてしまったそうです。

講演後には、在校生約300人が旧制中学時代の校歌を合唱しました。

中島にとって、忘れられない一日になったといいます。

郷学の森に残る中島平太郎の胸像

中島平太郎の功績は、現在も久留米の街に残されています。

その一つが、中央公園近くの「郷学の森」です。

郷学の森は、五穀神社と福岡県青少年科学館の間にあり、久留米ゆかりの人物の胸像が並んでいます。

そこには、「からくり儀右衛門」として知られる田中久重や、ブリヂストン創業者の石橋正二郎らとともに、中島平太郎の胸像も建てられています。

久留米から世界へ影響を与えた人物として、その功績が顕彰されているのです。

郷学の森にはどのような人物の胸像があり、それぞれ何を成し遂げたのでしょうか。

久留米ジャーナルでは、7人の人物を紹介しています。

関連記事:久留米市・郷学の森の7人の銅像は誰!? 写真でつづる人物まとめ

まとめ|世界の音楽を変えた技術者の原点は久留米にあった

中島平太郎は、CDの父と呼ばれる世界的な音響技術者でした。

しかし、その生涯をたどると、久留米という街との関係が繰り返し登場します。

旧制中学明善校で学び、久留米市公会堂で聴いたバイオリン演奏に感動し、音響技術を生涯の仕事とすることを決意しました。

その後、NHKで研究を重ね、故郷では石橋文化ホールの音響設計を担当しました。

そしてソニーに移り、世界中で使われることになるCDの開発を主導します。

興味深いのは、中島の人生が久留米という街の文化史とも重なっていることです。

明善校の先輩だった石橋幹一郎、久留米出身の建築家・菊竹清訓、そして石橋文化ホール。

これらは別々の歴史ではなく、一人の技術者の人生の中でつながっていました。

中島が音響技術を志すきっかけとなった久留米市公会堂は、すでに姿を消しました。

その跡地に建てられた久留米市民会館も、現在は残っていません。

しかし、中島が音響設計に携わった石橋文化ホールは、今も久留米市民が音楽に親しむ場所として使われています。

私たちが見慣れた久留米の施設にも、世界の技術史につながる物語が隠されています。

中島平太郎の人生は、そのことを教えてくれます。

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