久留米藩主・有馬家は、もともと久留米の土着勢力ではない。
その起源は、現在の兵庫県神戸市北区周辺にあたる摂津国有馬郡にある。
室町時代の有力武家・赤松氏の流れをくみ、「有馬」という名字もこの土地に由来するとされる。
つまり有馬家は、久留米から生まれた家ではなく、外から久留米へ来た家だった。
しかし、その外来の大名家が約250年にわたって久留米を治め、城下町、水天宮、筑後川流域の統治、幕末維新後の政治や文化にまで影響を残した。
有馬家とは何だったのか。
有馬家の起源|兵庫・有馬郡から始まった家
久留米藩主有馬家は、肥前島原のキリシタン大名・有馬晴信の家とは別系統で考えた方がよい。
久留米藩主となった有馬家は、
- 村上源氏の流れをくむ
- 室町時代の守護大名・赤松氏の一族とされる
- 摂津国有馬郡を領したことから「有馬」を名乗った
- 現在の兵庫県神戸市北区、有馬温泉周辺に由来する
という流れを持つ。
そのため、「有馬家は兵庫から来たのではないか」という見方は正しい。
ただし、直接「兵庫から久留米へ来た」という単純な話ではない。
有馬家は戦国期から江戸初期にかけて、播磨、遠江、丹波福知山などを経て、最終的に久留米へ入った。
有馬則頼|没落から再起した藩祖
久留米藩主有馬家の流れで重要なのが、有馬則頼である。
則頼は播磨国三木郡満田城に生まれた。
しかし、父が戦国の争乱で討死したことで、有馬家は一度苦しい立場に置かれる。
その後、則頼は羽柴秀吉に仕え、戦功を重ねて再び武家として表舞台に戻った。
有馬家の性格は、ここですでに見えている。
- 最初から安定した名門ではない
- 戦乱の中で一度沈んだ
- 中央権力に接続して再浮上した
- 生き残るために位置を変えた
有馬家は、ただ強かった家ではない。
むしろ、崩れかけたところから時代の勝者に接続し直した家だった。
有馬豊氏|豊臣から徳川へ移った久留米藩初代藩主
久留米藩初代藩主となるのが、有馬豊氏である。
豊氏は当初、豊臣秀吉に仕えた。
しかし秀吉の死後、父・則頼とともに徳川家康へ接近する。
関ヶ原の戦いでは徳川方に立ち、その功績によって丹波福知山六万石を与えられた。
その後、摂津三田の所領も加わり、八万石となる。
ここで豊氏は、重要な判断をしている。
- 豊臣政権のまま沈むのか
- 徳川政権へ移って生き残るのか
豊氏は、徳川を選んだ。
この選択が、有馬家を久留米へ導くことになる。
なぜ有馬家は久留米へ来たのか
有馬豊氏が久留米へ入ったのは、1620年である。
有馬家が久留米へ入る前、筑後国を支配していたのは田中氏だった。関ヶ原の戦い後、田中吉政は筑後一国三十二万五千石を与えられ、柳川城を本拠に筑後を治めた。しかし二代・田中忠政が嗣子なく亡くなると、田中家は改易される。
田中氏の改易後、筑後国は分割された。
北部の久留米には有馬豊氏が入り、南部の柳川には立花宗茂が復帰した。
久留米は有馬家二十一万石の藩都として整備され、ここで筑後は「柳川中心の一国支配」から「久留米藩と柳川藩を中心とする分割支配」へ移った。
これは、有馬家にとって大出世だった。
- 福知山八万石から久留米二十一万石へ
- 九州の重要地域を任される
- 黒田、鍋島、島津など大大名の近くに置かれる
- 幕府から一定の信頼を受けた外様大名となる
ただし、久留米は完成された都市ではなかった。
豊氏が入った当初、久留米城は十分に整備されておらず、城下町もこれから作り上げる必要があった。
つまり有馬家は、完成品の久留米を受け取ったのではない。
久留米を藩都として作り直した家だった。
久留米藩での功績|城下町と筑後川の統治
有馬家が久留米で行った大きな仕事は、次のように整理できる。
- 久留米城の整備
- 城下町の形成
- 家臣団や商人の配置
- 筑後川流域の支配
- 農業基盤の安定
- 水害と向き合う統治体制の形成
特に重要なのが、筑後川である。
筑後川は、久留米に豊かな農地をもたらす一方、氾濫すれば生活を破壊する川でもあった。
そのため久留米藩にとって、水をどう扱うかは単なる土木ではない。
藩の存続に関わる政治そのものだった。
関連記事:久留米藩とは何だったのか
水天宮と有馬家|信仰もまた統治だった
久留米藩主有馬家を語るうえで、水天宮は外せない。
水天宮は、筑後川と深く結びついた神社である。
二代藩主・有馬忠頼は、水天宮に対して土地を寄進し、社殿を造営したとされる。
ここで重要なのは、有馬家にとって水天宮が単なる神社ではなかったことだ。
水天宮は、
- 筑後川の水難除け
- 藩の守護
- 城下町の信仰
- 水とともに生きる久留米の象徴
として機能した。
つまり有馬家は、水天宮を通じて、治水と信仰を結びつけた。
政治と祈りは別々ではなかった。
水害のある土地では、祈りもまた統治の一部だった。
水天宮の神主は有馬家なのか
この点は少し整理が必要である。
江戸時代の構造としては、
- 有馬家:水天宮を保護した藩主家
- 神職:祭祀を担う神社側の家系
という役割分担だった。
つまり、藩主有馬家がそのまま水天宮の神主だった、というわけではない。
しかし現代では、有馬家と水天宮の関係はより直接的になっている。
旧久留米藩主有馬家第十七代当主の有馬頼央は、2009年に水天宮の宮司に就任した。
つまり現代においては、有馬家の当主が水天宮の宮司を務めた時期がある。
ここに、有馬家の連続性が見える。
大名としての政治的役割は消えた。
しかし、水天宮という信仰と文化の場を通じて、有馬家は久留米藩主家としての記憶を残している。
関連記事:水天宮と有馬家
歴代藩主で重要な人物
久留米藩主有馬家で特に語るべき人物は、次の三人である。
初代・有馬豊氏
豊氏は、久留米藩の基礎を作った人物である。
- 福知山から久留米へ入る
- 久留米城と城下町を整える
- 二十一万石の大藩としての体制を作る
豊氏の功績は、派手な武勇ではない。
だが、久留米を藩都として成立させたという点で、最も重要な藩主である。
七代・有馬頼徸
七代藩主・有馬頼徸は、和算を修めた「算学大名」として知られる。
政治家というより、学問や文化の面で語られる人物である。
有馬家には、武力だけではなく、学問や文化を重んじる側面もあった。
五穀神社の土地を寄進したことでも知られる。
関連記事:五穀神社の歴史と現在
九代・有馬頼徳
九代藩主・有馬頼徳は、江戸の久留米藩上屋敷へ水天宮を勧請した人物として重要である。
この江戸の水天宮が、のちに東京・日本橋蛎殻町の水天宮へとつながっていく。
つまり頼徳は、
- 久留米の信仰を江戸へ運んだ
- 水天宮を全国的に知られる存在へ広げるきっかけを作った
- 久留米と江戸を信仰で結んだ
人物だった。
幕末の久留米藩|攘夷思想と藩内の揺れ
幕末になると、久留米藩も大きく揺れる。
全国で尊王攘夷思想が高まる中、久留米藩内でも攘夷派が力を持つようになった。
攘夷とは、外国勢力を排除しようとする思想である。
しかし幕末の攘夷は、単なる外国嫌いではなく、幕府批判や新しい政治秩序を求める動きとも結びついていた。
久留米藩では、この攘夷思想が過激化し、明治初期には久留米藩難事件へとつながっていく。
大楽源太郎暗殺事件である。
有馬家は新政府側へ移行していく。
しかし藩内には、なお攘夷を貫こうとする勢力がいた。
このズレが、幕末から明治初期の久留米藩を複雑にしている。
西南戦争|久留米は官軍側についた
1877年、西南戦争が起きる。
西郷隆盛を中心とする鹿児島士族が、明治政府に反乱を起こした内戦である。
この時、旧久留米藩勢力は官軍側についた。
これは重要である。
久留米藩は、幕末から明治初期にかけて攘夷派の熱を抱えていた。
しかし最終的には、反政府士族ではなく、明治国家の側に立った。
ここにも有馬家的な判断が見える。
- 豊臣から徳川へ
- 福知山から久留米へ
- 旧藩から明治国家へ
有馬家は、常に負ける側に固定されないように位置を変えてきた。
廃藩置県後の有馬家
1871年、廃藩置県によって久留米藩は消滅する。
藩主という制度も終わった。
しかし、有馬家そのものは消えなかった。
旧大名家として華族に列し、近代日本の中で新しい役割を持つようになる。
この流れで最も有名なのが、有馬頼寧である。
有馬頼寧は、
- 旧久留米藩主有馬家の第十四代当主
- 農政学者
- 農林大臣
- 日本中央競馬会第二代理事長
- 有馬記念の由来となった人物
として知られる。
「有馬記念」の有馬は、有馬温泉ではない。
この有馬頼寧に由来する。
ここで有馬家は、久留米藩主家から、政治、農政、競馬制度に名前を残す家へ変わった。
現代の有馬家は何をしているのか
戦後、華族制度は廃止された。
貴族院もなくなり、旧大名家が政治的特権を持つ時代は終わった。
そのため、有馬家は現在、代々政治家として前面に出ているわけではない。
しかし、完全に歴史から消えたわけでもない。
第十七代当主・有馬頼央は、水天宮の宮司を務めた。
また、有馬育英会の理事長も務めている。
つまり現代の有馬家は、
- 政治の家ではなくなった
- しかし水天宮との関係を持ち続けた
- 教育や文化的な領域で名を残した
- 旧久留米藩主家としての記憶を継承した
と言える。
まとめ|有馬家とは何だったのか
久留米藩主有馬家とは、単なる「久留米の殿様」ではない。
その歴史を整理すると、次のようになる。
- 兵庫・有馬郡に由来する赤松氏系の家
- 戦国の争乱で一度苦しい立場に置かれた
- 豊臣政権で再起した
- 徳川方へ移って生き残った
- 福知山から久留米二十一万石へ入った
- 久留米城と城下町を整えた
- 筑後川と水天宮を軸に藩を治めた
- 幕末には攘夷思想と藩内対立に揺れた
- 西南戦争では官軍側に立った
- 明治以降は華族、政治家、競馬制度、水天宮の宮司へと役割を変えた
有馬家は、勝ち続けた家ではない。
しかし、消えなかった家である。
時代が変わるたびに、場所を変え、役割を変え、生き残る位置を探し続けた。
その姿は、どこか久留米という街にも重なる。
久留米は、絶対的な中心都市ではない。
しかし、消えない。
福岡に近く、筑後に根を張り、時代ごとに役割を変えながら残ってきた。
有馬家とは、久留米を支配した家である。
同時に、久留米という街に「変わりながら残る」という性格を刻んだ家でもある。

