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田中久重とは|久留米が生んだからくり儀右衛門と東芝の原点

田中久重とは 久留米 ゆかりの人
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久留米には、全国的な企業や文化につながる人物が何人もいます。

その中でも、田中久重は少し特別な存在です。

田中久重は、江戸時代の久留米に生まれた発明家で、「からくり儀右衛門」の名で知られています。

からくり人形、万年時計、蒸気機関、電信機など、時代をまたいでさまざまな発明に関わりました。

現在の東芝の前身につながる工場を開いた人物としても知られており、久留米から日本の近代技術へとつながる重要な人物です。

この記事では、田中久重とはどのような人物だったのか、久留米との関係、代表的な発明、そして東芝とのつながりまでをわかりやすく紹介します。

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田中久重とは

田中久重は、久留米が生んだ発明家です。

「からくり儀右衛門」と呼ばれ、からくり人形や万年時計などを製作しました。

幕末には佐賀藩や久留米藩に招かれ、蒸気機関や大砲の研究開発にも取り組みました。

さらに明治時代には東京で工場を開き、それがのちの東芝の前身につながります。

久留米の偉人というと、ブリヂストン創業者の石橋正二郎を思い浮かべる人も多いかもしれません。

しかし、田中久重はそれよりも前の時代に、久留米から日本の近代技術へと橋をかけた人物です。

関連記事:石橋正二郎が久留米に遺したもの

久留米城下の通町十丁目に生まれた

田中久重は、1799年、久留米城下の通町十丁目に生まれました。家業はべっ甲細工師で、幼名は岩次郎とされています。

通町は当時の城下町を東西に通るメインストリートで、商家や職人の町としてにぎわっていました。

幼いころから手先が器用で、9歳のころには「開かずの硯箱」を作ったと伝えられています。

普通の子どもの工作ではなく、人を驚かせる仕掛けを考えるところに、のちの「からくり儀右衛門」らしさがすでに出ています。

五穀神社の祭礼で評判になった「からくり」

田中久重の才能が地元で知られるきっかけになったのが、五穀神社の祭礼です。

五穀神社は、久留米城下の東の入り口にあたる場所にあり、春と秋には多くの屋台や見世物が並ぶ祭礼が行われていました。その中で人気を集めていたのが、からくり人形の舞台です。久重は水の圧力や落下を利用した「水からくり」などを披露し、人々を驚かせました。

田中久重の技術は、最初から机の上の学問だけではなく、祭りの場で人を驚かせ、楽しませる技術でした。

久重の発明には、職人の精密さだけでなく、見世物としての華やかさもあります。

関連記事:五穀神社の歴史

大坂・京都へ進み、発明家として名を上げる

久重はその後、大坂や京都へ移り、からくり人形師として活動します。

からくり興行で名を広める一方で、懐中燭台や無尽灯など、暮らしに役立つ道具も作りました。単に珍しいものを作るだけではなく、人々の生活を便利にする発明へと広がっていったのです。

大坂移住、京都移住、無尽灯の発明、万年時計の完成などが田中久重の重要な歩みになっています。

「からくり」は遊びのように見えて、その中には精密な機械技術があります。

田中久重は、見世物の技術を生活用品や時計、さらに近代工業へと接続していきました。

最高傑作とされる万年時計

田中久重の代表作として知られるのが、万年時計です。

正式には「万年自鳴鐘」と呼ばれます。

国立科学博物館の資料によると、万年時計は高さ57センチのぜんまい駆動の大型置時計で、1851年に完成しました。六角形の各面に複数の文字盤を持ち、不定時法、二十四節気、七曜、十干十二支、旧暦、月の満ち欠け、西洋時刻などを表示する仕組みを備えていました。上部には太陽と月の動きを示す天象儀も付いています。

これは単なる時計ではありません。

江戸時代の技術、天文学、暦、装飾工芸が一つに詰め込まれた“機械の宝箱”のような存在です。

国立科学博物館は、田中久重を江戸期から明治期へ科学技術を橋渡しした重要人物と位置付けています。

佐賀藩・久留米藩で近代技術に関わる

50歳を過ぎた田中久重は、西洋科学技術の分野にも踏み込みます。

佐賀藩や久留米藩に招かれ、蒸気車、蒸気船、ボイラー、洋式大砲、小銃などの製造に関わりました。

このあたりから、田中久重は「からくりの名人」だけでは説明できなくなります。

幕末の日本が西洋技術を取り入れようとする時代に、実際に手を動かし、機械を作る側にいた人物でした。

東京で工場を開き、東芝の原点へ

明治維新後、田中久重は75歳で東京へ移ります。

明治8年には東京・銀座に店舗兼工場を構え、電信機などの製作に取り組みました。

東芝の歴史は、田中久重が銀座に開いた工場兼店舗から始まったのです。

久留米で生まれ、からくり人形で名を上げ、万年時計を作り、幕末の軍事・蒸気技術に関わり、最後は東京で電信機の製造へ進む。

田中久重の人生は、江戸の職人技から明治の近代工業へ向かう日本の流れそのものでもあります。

久留米で田中久重を感じられる場所

久留米で田中久重を感じやすい場所の一つが、JR久留米駅前のからくり時計です。

JR久留米駅前のからくり時計

このからくり時計は、田中久重の生誕200年、久留米市制施行110周年、九州鉄道開通・久留米駅設置110周年を記念して設置されました。

定時になると儀右衛門人形が登場し、無尽灯、万年回転独楽、弓ひき童子、万年時計、蒸気車などを紹介する仕掛けになっています。1日2回ずつ、松田聖子チェッカーズの歌が流れ、ファンの間では聖地巡礼のコースにもなっています。

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また、現在、五穀神社の横にある郷学の森のなかに石碑が建っています。

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生家は西鉄天神大牟田線の工事にともなって取り壊されましたが、久留米の中心部には今も田中久重ゆかりの記憶が残っています。

まとめ

田中久重は、久留米出身の発明家です。

からくり人形で人々を驚かせ、万年時計で江戸期の技術を極め、幕末には蒸気機関や大砲の研究開発に関わり、明治には東京で工場を開きました。

その流れは、のちの東芝へとつながっていきます。

田中久重のすごさは、ひとつの分野に収まらないところにあります。

からくり師であり、職人であり、発明家であり、近代技術者でもありました。

久留米という城下町から、日本の近代工業へとつながる道を切り開いた人物。

それが、からくり儀右衛門こと田中久重です。

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