久留米県は、実際に存在していました。
ただしその期間は非常に短く、明治初期の一時的なものです。
その後すぐに統合され、現在の福岡県へと組み込まれていきました。
久留米でこんな声を聞くことがあります。
「太宰府までが久留米」
もちろん実際の行政区分ではありません。
しかしこの言葉には、久留米という街の“感覚的な広がり”が表れています。
同じ福岡県であっても、どこまでが自分たちの生活圏なのか。
その感覚は、現在の県境とは必ずしも一致しません。
このズレは偶然ではありません。
久留米がたどってきた歴史と深く関係しています。
まずは流れを全体で見てみます。
久留米県から福岡県までの流れ
| 年 | 出来事 | 内容 |
|---|---|---|
| 1868年 | 明治維新 | 幕府崩壊、新政府成立 |
| 1868年 | 明治政府誕生 | 中央集権国家へ移行開始 |
| 1871年 | 廃藩置県 | 藩を廃止し県へ再編 |
| 1871年 | 久留米県成立 | 旧久留米藩がそのまま県になる |
| 1871年 | 三潴県成立 | 久留米・柳川などを統合 |
| 1876年 | 福岡県成立 | 各県を統合し現在の形へ |
明治維新以前|久留米は藩だった
1868年、明治維新以前、久留米は久留米藩として存在していました。
当時の日本は藩ごとに分かれており、現在の県とはまったく違う構造です。
- 久留米藩
- 福岡藩
- 柳川藩
- 小倉藩
それぞれが独立した統治単位でした。
廃藩置県で久留米県が誕生
1871年、廃藩置県が実施されます。
これにより久留米藩は久留米県となり、ここで「久留米県」が誕生します。
久留米県の範囲
当時の久留米県は、旧久留米藩の領地をそのまま引き継いだものでした。
現在の地図で言えば、
- 久留米市
- 小郡市周辺
- うきは市の一部
- 八女市北部
- 三井郡・三潴郡一帯
などが含まれます。
ただし飛び地が多く、現在の県のように整った形ではありませんでした。
三潴県への統合
当時は県が多すぎて行政が成り立たない状態でした。
そのためすぐに統合が行われます。
久留米県や柳川県などはまとめられ、三潴県となります。
三潴県の範囲は、
- 久留米市
- 柳川市
- 八女市
- 筑後市
- 大川市
- みやま市
- うきは市
- 三潴郡一帯
など、筑後地方の広い範囲に及びました。
北部では別の再編が進んでいた
同じ時期、北部では別の再編が進んでいました。
現在の北九州地域は、
- 小倉県
- 豊津県
などに分かれていました。
つまりこの時点では、現在の福岡県はまだ存在していません。
福岡県への統合
1876年、
- 福岡県
- 三潴県
- 小倉県(など)
が統合され、現在の福岡県が成立します。
ここでようやく、現在の行政区分が完成します。
久留米県の知事は有馬家ではない
久留米藩の時代、この地を治めていたのは有馬家でした。
しかし久留米県になると、県知事は政府が任命する形になります。
世襲の支配から国家による統治へ。
ここで仕組みそのものが変わりました。
まとめ
久留米県は確かに存在していましたが、長く続いたわけではありません。
明治初期の短い期間の中で、
久留米県 → 三潴県 → 福岡県
と再編されていきます。
そして現在も、「太宰府までが久留米」という感覚が残っているように、人の中の地図は必ずしも行政区分と一致しません。
久留米という街の広がりは、明治以前から続く歴史の中で形づくられているのです。久留米県は短期間で姿を消しましたが、その歴史は現在の街の形や人の感覚に残っています。
久留米という地名そのものの由来については、こちらで詳しく解説しています。
現在の久留米は、歴史と文化を感じられる街であると同時に、生活の利便性も高い都市として知られています。
久留米の観光スポットについては、こちらの記事でまとめています。
また、久留米の歴史全体を知りたい方は、こちらも参考にしてください。


