ブリヂストン創業者として知られる石橋正二郎には、兄がいました。
その名を、石橋徳次郎といいます。
ただし、少しややこしいのですが、石橋正二郎の父も石橋徳次郎です。
今回、取り上げるのは、父ではなく、正二郎の兄である二代目・石橋徳次郎です。
※もともとの名は石橋重太郎。のちに父の名を継ぎ、石橋徳次郎を名乗りました。
石橋正二郎は、久留米から世界企業ブリヂストンを生んだ人物として広く知られています。
しかし、その兄である石橋徳次郎もまた、久留米の産業、商業、市政、教育に大きな足跡を残した人物でした。
石橋徳次郎の年表
まず、石橋徳次郎の人生を年表で整理してみます。
| 年 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1886年 | 0歳 | 石橋重太郎として生まれる。のちに二代目・石橋徳次郎を名乗る。 |
| 1892年 | 6歳 | 父・初代石橋徳次郎が久留米で仕立物業「志まや」を始める。 |
| 1906年 | 20歳 | 弟・石橋正二郎とともに、父から家業「志まや」を引き継ぐ。 |
| 1907年 | 21歳 | 家業が足袋事業へ転換。久留米の足袋産業発展の流れに入る。 |
| 1918年 | 32歳 | 日本足袋株式会社の発足に関わる。 |
| 1922年 | 36歳 | 日本足袋が貼付式ゴム底足袋、いわゆる地下足袋を発売。 |
| 1928年 | 42歳 | 弟・正二郎とともに、九州医学専門学校、現在の久留米大学の創設に関わり、土地と本館を寄付する。 |
| 1936年 | 50歳 | 旭屋デパートの創立に関わる。のちの久留米井筒屋につながる百貨店である。 |
| 1937年 | 51歳 | 弟・正二郎とともに、久留米市立図書館へ鉄筋3階建ての書庫を寄付する。 |
| 1938年 | 52歳 | 第9代久留米市長に就任する。 |
| 1942年 | 56歳 | 久留米市長を退任。同年、久留米商工会議所会頭となる。 |
| 戦後 | 60代以降 | 日本ゴム、久留米商工界の重鎮的存在となる。 |
| 1958年 | 72歳 | 死去。日本ゴム、現在のアサヒシューズ系では名誉会長として記録される。 |
この年表を見ると、石橋徳次郎の人生が、単なる実業家の経歴ではないことがわかります。
家業の継承、足袋産業の近代化、地下足袋とゴム産業、市政、商工会議所、百貨店、図書館、大学。
徳次郎の足跡は、久留米の産業、商業、教育、公共インフラにまたがっています。
石橋正二郎の兄として家業を支えた
石橋徳次郎は、1886年に生まれました。弟の石橋正二郎は1889年生まれなので、徳次郎は正二郎より3歳年上です。
石橋家の事業の出発点は、父・初代石橋徳次郎が始めた仕立物業「志まや」でした。
1906年、石橋正二郎は久留米商業学校を卒業し、兄の重太郎、つまりのちの徳次郎とともに家業を継ぎます。このとき父は、兄に外部関係の仕事を、弟の正二郎に内部関係の仕事を担当させたとされています。
ここに、兄弟の役割分担が見えます。
正二郎は、事業の仕組みや製品、経営の内部を考える人物でした。一方、兄の徳次郎は、人と会い、地域とつながり、外部との関係を築く人物だったと考えられます。
石橋正二郎の伝記だけを読むと、久留米の一商家からブリヂストンが生まれた物語は、正二郎一人の力で進んだように見えます。しかし、出発点には兄弟の協力がありました。
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久留米をゴム産業のまちへ押し出した
石橋徳次郎の大きな功績のひとつは、久留米を足袋のまちからゴム産業のまちへ押し出したことです。
石橋家の家業は、もともと仕立物業でした。そこから足袋事業へ進み、日本足袋株式会社へと発展していきます。日本足袋は、のちに地下足袋やゴム靴の製造へと進み、久留米のゴム産業の土台を作りました。
久留米といえば、現在ではブリヂストンの創業地として知られています。しかし、その前には足袋産業がありました。
布の足袋から、ゴム底の地下足袋へ。さらにゴム靴へ。そしてタイヤへ。
この流れの中で、久留米は近代的な工業都市へと変わっていきました。
石橋正二郎がブリヂストンを創業し、タイヤ事業を大きく発展させたことはよく知られています。一方で兄の徳次郎は、日本足袋、日本ゴムの流れの中で、久留米の地場産業を近代工業へ押し上げた人物でした。
つまり、徳次郎は「ブリヂストン創業者の兄」というだけではありません。
久留米がゴム産業のまちになる前段階で、重要な役割を果たした実業家だったのです。
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旭屋デパートと久留米の商業
石橋徳次郎の功績は、工業だけではありません。
1936年、徳次郎は旭屋デパートの創立に関わったとされています。旭屋デパートは、のちの久留米井筒屋につながる百貨店です。
これは、久留米の都市史を考えるうえで重要です。
石橋家というと、どうしてもブリヂストンやゴム産業の印象が強くなります。しかし、徳次郎は工業だけでなく、久留米の中心市街地の商業にも関わっていました。
旭屋は、のちに井筒屋と資本提携し、久留米井筒屋となります。久留米井筒屋は、六ツ門の中心的な百貨店として長く親しまれました。閉店後、その跡地を含む再開発によって、現在の久留米シティプラザへとつながっています。
この流れを見ると、徳次郎は久留米を「ものをつくる街」としてだけでなく、「人が集まり、買い物をし、都市の中心をつくる街」としても支えた人物だったことがわかります。
久留米の工業と商業。その両方に関わったところに、徳次郎という人物の広がりがあります。
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久留米市長を無報酬で務めた
石橋徳次郎は、1938年から1942年まで、第9代久留米市長を務めました。
有馬記念館の資料では、徳次郎はこの時期、名誉市長として無報酬で久留米市長を務めたとされています。
これは、石橋家が単に久留米で事業をしていた一族ではなかったことを示しています。石橋家は、企業活動だけでなく、都市運営そのものにも関わっていたのです。
ただし、徳次郎の市長時代は、戦前から戦中へ向かう非常に難しい時期でした。1938年から1942年という時代を考えると、自由な都市政策を打ち出すというより、国家全体が戦時体制へ進んでいく中で、地方都市の運営を担う立場だったと見るべきでしょう。
それでも、久留米の有力実業家が市長を無報酬で務めたという事実は、徳次郎が地域社会に対して強い責任感を持っていたことを示しています。
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久留米市立図書館への書庫寄付
石橋徳次郎の具体的な功績として、久留米市立図書館への寄付も見逃せません。
1937年、石橋徳次郎と石橋正二郎の兄弟は、久留米市立図書館へ鉄筋3階建ての書庫を寄付しています。
図書館は、街の知の倉庫です。学校や大学のように目立つ施設ではないかもしれません。しかし、本を保存し、市民が知識に触れる場所を支えることは、都市の文化を支えることでもあります。
石橋徳次郎と正二郎の兄弟は、図書館という公共の知的インフラにも関わっていました。
久留米の近代化は、工場や道路だけで進んだわけではありません。学びの場、本を守る場所、文化を蓄える場所があって、はじめて街の厚みが生まれます。
その意味で、図書館への書庫寄付は、徳次郎の功績としてもっと知られてよいものです。
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久留米大学創設への貢献
石橋徳次郎の功績としてよく知られるものに、現在の久留米大学への貢献があります。
1928年、九州医学専門学校、現在の久留米大学の設立に際し、石橋正二郎と兄の徳次郎は、土地と現在の大学本館を寄付しました。
久留米に医学教育の拠点をつくることは、単に学校をひとつ増やすという話ではありませんでした。医療、教育、研究、人材育成の拠点を久留米に置くということです。
現在の久留米大学は、久留米を代表する教育・医療機関のひとつです。その出発点に石橋兄弟の寄付がありました。
ここでも、徳次郎は正二郎とともに、久留米の未来に投資した人物だったといえます。
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戦後の石橋徳次郎
戦後の石橋徳次郎は、弟・石橋正二郎のように全国的な経済人として前面に出たわけではありません。
正二郎は戦後、ブリヂストンをさらに大きくし、経済界や文化事業でも大きな存在となっていきました。一方で徳次郎は、日本ゴム、現在のアサヒシューズにつながる久留米側の事業を象徴する人物として残りました。
徳次郎は1958年に亡くなります。その時点では、日本ゴムの名誉会長として記録されています。
戦後の徳次郎は、新しい事業を次々に起こす人物というより、久留米の足袋産業、地下足袋、日本ゴムへと続く歴史を背負った長老的存在だったと見るべきでしょう。
正二郎が戦後のブリヂストンを前へ進めた人物だとすれば、徳次郎は、戦前から続く久留米のゴム産業の記憶を担った人物でした。
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石橋徳次郎の人物像
石橋徳次郎の人物像を考えるとき、弟の石橋正二郎との対比は欠かせません。
正二郎は、構想力と経営感覚に優れた人物でした。新しい製品を考え、事業を組み立て、全国へ、さらに世界へ向かっていきました。
一方の徳次郎は、外交的な人物だったとされています。人と会い、地域社会とつながり、商工界や市政の中で役割を果たしていきました。
石橋家の発展は、正二郎一人の才能だけで説明できるものではありません。
内側で事業を組み立てる正二郎。
外側で人と地域をつなぐ徳次郎。
この兄弟の役割分担があったからこそ、久留米の一商家は、足袋産業、ゴム産業、百貨店、市政、教育、文化へと広がっていったのではないでしょうか。
久留米という街の地層を掘っていくと、徳次郎の名前は何度も現れます。
日本足袋。
日本ゴム。
旭屋デパート。
久留米市長。
久留米商工会議所。
久留米市立図書館。
久留米大学。
これらをつなぐ線の上に、石橋徳次郎という人物がいます。
まとめ|石橋徳次郎は久留米の何を支えたのか
石橋徳次郎の功績は、ひとつの記念碑に集約されるものではありません。
石橋正二郎には、ブリヂストン、石橋文化センター、久留米大学への貢献など、非常にわかりやすい実績があります。
一方で徳次郎の功績は、もう少し見えにくいものです。しかし、その見えにくさこそが、徳次郎らしさでもあります。徳次郎は、事業を支え、地域をつなぎ、商工界に関わり、市政を担い、教育と文化にも力を貸しました。いわば、久留米の近代化を横から支えた人物です。
石橋徳次郎を知ることで、石橋家が単なる企業家一族ではなかったことが見えてきます。
久留米の近代化を考えるうえで、もっと知られてよい人物なのです。



