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道仁会と九州誠道会の抗争史|分裂の理由と久留米文化街への影響

道仁会抗争 文化街を読む
この記事は約4分で読めます。

2000年代後半、九州の暴力団情勢を大きく揺るがした出来事があります。

それが、道仁会と九州誠道会の抗争です。

この抗争は

  • 福岡
  • 佐賀
  • 熊本
  • 長崎

など九州各地に波及し、発砲事件や襲撃事件が相次ぎました。
九州でも最大級の暴力団抗争の一つとされています。

この記事では

  • 抗争が起きた背景
  • 分裂の理由
  • 抗争の経緯
  • 久留米の繁華街への影響

を整理します。

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抗争の発端|道仁会の分裂

抗争のきっかけは、2006年の道仁会三代目人事でした。

当時の道仁会は、二代目会長 松尾誠次郎 のもとで長年運営されていました。

三代目会長に就任したのは

大中義久

です。

しかし、この三代目体制をめぐって組織内部で対立が激化しました。

その結果、反発した勢力が道仁会を離脱し、新たに

九州誠道会

を結成します。

これが抗争の始まりでした。

なぜ分裂したのか|三代目継承と派閥対立

抗争の背景には、組織内部の派閥対立があったとされています。

道仁会では、二代目会長の松尾誠次郎が長く組織を率いていました。

二代目体制は

1992年〜2006年

と約14年間続きました。

長期政権の中で、組織内部には複数の派閥が形成されていったと考えられています。

その中で三代目会長に就任したのが

大中義久(松尾組組長)

でした。

つまり

二代目 松尾誠次郎
 ↓
松尾組
 ↓
三代目 大中義久

という流れになります。

この人事は内部では

「松尾系による権力継承」

と受け止められた可能性があり、他派閥の反発を招いたといわれています。

その結果、反発した勢力が道仁会を離脱し、九州誠道会を結成することになります。

九州誠道会の結成

2006年、道仁会から離脱した勢力が

九州誠道会

を結成しました。

中心人物は

村神長二郎

とされ、道仁会から離脱した組員が参加しました。

こうして九州北部では

道仁会
VS
九州誠道会

という構図が生まれます。

道仁会と九州誠道会(現・浪川会)の対立は、単なる組織間の争いとして語られることが多いですが、その背景には地域の成り立ちの違いも見えてきます。

久留米は古くから商業の拠点として発展してきた都市です。
一方で大牟田は、三池炭鉱によって形成された典型的な産業都市でした。

商業都市と炭鉱都市。
この違いは、人の流れや街の構造だけでなく、そこに根付く価値観にも影響を与えます。

流動的な商業の街と、労働に支えられた産業の街。

この違いが、組織の性質や考え方の違いとして現れていた可能性もあります。

大牟田という街の成り立ちから見ると、この対立の見え方は大きく変わります。
▶大牟田とはどんな街か

抗争激化|発砲事件が相次ぐ

分裂後、両組織の対立は急速に激化しました。

2006年から2007年にかけて九州各地で

  • 発砲事件
  • 襲撃事件
  • 爆発事件

などが発生します。

抗争の激化期には、民間人を巻き込む危険な状況も発生。2007年11月に佐賀県武雄市で、整形外科病院に入院中の一般市民男性が、人違いで殺害されました。

警察も警戒を強め、九州の暴力団情勢は緊張状態に入りました。

三代目会長射殺事件

抗争の象徴的な事件が

2007年8月の三代目会長射殺事件

です。

2007年8月、福岡市で

道仁会三代目会長・大中義久

が銃撃され死亡しました。

この事件は全国ニュースでも大きく報じられ、抗争の象徴的事件となりました。

四代目体制へ

三代目の死去後、道仁会では

小林哲治

が四代目会長に就任します。

四代目体制のもとで組織の再編が進められ、抗争は徐々に沈静化していきました。

▶ 道仁会の現在の本部や組事務所

抗争の年表

年出来事概要
2006年分裂道仁会から九州誠道会が離脱、敵対関係へ
2007年8月大中義久三代目会長銃撃死福岡市中央区で射殺される
2007年11月武雄市・一般男性誤射事件市民が巻き添えで死亡、社会的衝撃拡大
2008〜2011年抗争拡大期久留米・大牟田・佐賀・熊本で連続発砲事件
2012年抗争終息傾向1年以上発砲事件なし、警察が“終戦”兆候と判断
2013年6月九州誠道会が解散届提出公式に抗争終結宣言
2014年6月特定抗争指定解除福岡県公安委員会が両組織の指定を解除

抗争が久留米・文化街に与えた影響

抗争が激化していた当時、久留米の繁華街にも少なからず影響があったと言われています。

久留米最大の歓楽街である文化街では、抗争関連のニュースが続いたことで

「久留米は危ないのではないか」

というイメージが広がり、客足が落ち込んだ時期があったといいます。

文化街で長年バーを営む店主は、当時の様子について次のように語っていました。

「あの頃は抗争のニュースが続いてね。
久留米は危ないって言われて、文化街に来る人が減った時期があったよ」

もちろん文化街そのものが事件の現場だったわけではありませんが、抗争の報道が街のイメージに影響を与えた可能性は否定できません。

現在の文化街は久留米を代表する繁華街として多くの人でにぎわっていますが、2000年代後半にはこうした時代もあったと語られています。

久留米の文化街については、こちらの記事でも詳しく解説しています。
▶ 久留米・文化街とはどんな街なのか

まとめ

道仁会と九州誠道会の抗争は、2006年の組織分裂から始まり、九州各地で事件が続いた大規模抗争でした。

背景には

  • 三代目継承をめぐる派閥対立
  • 組織内部の権力争い

があったとされています。

その象徴的事件が2007年の三代目会長射殺事件です。

現在では抗争は沈静化していますが、この出来事は九州の暴力団史の中でも重要な転換点となりました。

現在の道仁会については、こちらの記事でも詳しく解説しています。

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