御井旗崎は昔どんな場所だったのか|薩摩街道と府中宿から読む久留米ラブホテル街の背景

御井旗崎の歴史 歴史と文化
この記事は約3分で読めます。

御井旗崎のラブホテル街を見ていると、ひとつだけ腑に落ちないことがある。

なぜここなんだろうか。

インターがある、幹線道路が通っている。

確かに、そう説明されれば納得できる。

だが、その前にもう一つ疑問が残る。

この位置は偶然なのだろうか?

少しだけ歴史をさかのぼり、地図を引き延ばしてみる。

スポンサーリンク

薩摩街道は久留米のどこを通っていたのか

江戸時代、九州には南北をつなぐ大きな動線があった。

それが、薩摩街道だ。

福岡から熊本、さらに鹿児島へと続く道で、人も物もこの道を通って動いていた。
久留米も、その途中にある。

久留米市が公開している「歴史散策マップ(薩摩街道)」でも、このルートが確認できる。
https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/historywalk042.pdf

文章だけでは分かりにくいので、一度地図で確認しておく。

出典:久留米市「歴史散策マップ(薩摩街道)」より引用(※一部加工)

古地図を見ると、薩摩街道は御井周辺を通っている。

そして現在の地図に重ねてみると、そのラインは御井旗崎とほぼ重なる。

つまり御井旗崎は、街道から外れた場所ではなく、もともと人が通っていた動線の上にある。

御井の府中宿はどんな宿場町だったのか

薩摩街道の流れの中で、御井は府中宿として機能していた。

旅人はここで泊まり、流れを一度止める。そしてまた次の宿場へ向かう。

ここでも地図を見ておく。

古地図で見ると、宿場の中心は御井側にまとまっている。

ここが人の滞在を引き受ける核だった。

つまりこの一帯は昔から、「通る場所」と同時に「止まる場所」でもあった。

御井旗崎は宿場の外側ではなく動線の中にある

ここで重要なのは、御井旗崎の位置だ。

宿場の中心は御井にある。

だが、御井旗崎はそのすぐ隣にある。外れではない。むしろ、同じ流れの上にある場所だ。

宿場というのは点ではなく、帯で存在する。人の流れが通る範囲全体が機能する。

そう考えると、御井が宿場だったのであれば、御井旗崎もまた、その流れの中にあったと見る方が自然になる。

江戸時代、人は徒歩や馬で移動した。現代、人は車で移動する。

街道は国道に、さらに高速道路へと形を変えた。

だが、人が通る場所は大きく変わらない。

御井旗崎は昔も今も、人の流れの上にある。

なぜ今も“泊まる機能”が残るのか

現在、御井旗崎にはラブホテルが集中している。

インターがあり、幹線道路があり、成立しやすい条件が揃っているからだ。

だが、それだけではない。

この場所は昔から、通る人と、止まる場所が重なる地点だった。

その構造がそのまま残り、形だけが変わった。

旅館がラブホテルに変わっただけで、「ここで一度止まる」という役割は変わっていない。

久留米のラブホテル街はなぜインター付近に集中しているのか

まとめ

御井旗崎は、久留米の外れにある場所ではない。

昔から、人の流れの上にある場所だった。

薩摩街道が通り、御井には府中宿があり、その動線は御井旗崎まで続いている。

だからこそ現在も、この場所に“泊まる機能”が残る。

ラブホテル街は突然できたものではない。

もともとそこにあった流れの上に、今の形が重なっているだけだ。

では、なぜ現在の御井旗崎にラブホテルが集中しているのか。文化街との違いや、インター立地、用途地域など現在の構造については、以下の記事で詳しく解説している。

御井旗崎のラブホテル街は、突然生まれたものではない。古い地図の上に、今の風景が重なっている。

久留米という街の流れをもう少し広く見ていくと、同じような構造はいくつも見えてくる。

久留米の歴史を見る

タイトルとURLをコピーしました