御井旗崎のラブホテル街を見ていると、ひとつだけ腑に落ちないことがある。
なぜここなんだろうか。
インターがある、幹線道路が通っている。
確かに、そう説明されれば納得できる。
だが、その前にもう一つ疑問が残る。
この位置は偶然なのだろうか?
少しだけ歴史をさかのぼり、地図を引き延ばしてみる。
薩摩街道は久留米のどこを通っていたのか
江戸時代、九州には南北をつなぐ大きな動線があった。
それが、薩摩街道だ。
福岡から熊本、さらに鹿児島へと続く道で、人も物もこの道を通って動いていた。
久留米も、その途中にある。
久留米市が公開している「歴史散策マップ(薩摩街道)」でも、このルートが確認できる。
→https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/historywalk042.pdf
文章だけでは分かりにくいので、一度地図で確認しておく。

古地図を見ると、薩摩街道は御井周辺を通っている。
そして現在の地図に重ねてみると、そのラインは御井旗崎とほぼ重なる。
つまり御井旗崎は、街道から外れた場所ではなく、もともと人が通っていた動線の上にある。
御井の府中宿はどんな宿場町だったのか
薩摩街道の流れの中で、御井は府中宿として機能していた。
旅人はここで泊まり、流れを一度止める。そしてまた次の宿場へ向かう。
ここでも地図を見ておく。

古地図で見ると、宿場の中心は御井側にまとまっている。
ここが人の滞在を引き受ける核だった。
つまりこの一帯は昔から、「通る場所」と同時に「止まる場所」でもあった。
御井旗崎は宿場の外側ではなく動線の中にある
ここで重要なのは、御井旗崎の位置だ。
宿場の中心は御井にある。
だが、御井旗崎はそのすぐ隣にある。外れではない。むしろ、同じ流れの上にある場所だ。
宿場というのは点ではなく、帯で存在する。人の流れが通る範囲全体が機能する。
そう考えると、御井が宿場だったのであれば、御井旗崎もまた、その流れの中にあったと見る方が自然になる。
江戸時代、人は徒歩や馬で移動した。現代、人は車で移動する。
街道は国道に、さらに高速道路へと形を変えた。
だが、人が通る場所は大きく変わらない。
御井旗崎は昔も今も、人の流れの上にある。
なぜ今も“泊まる機能”が残るのか
現在、御井旗崎にはラブホテルが集中している。
インターがあり、幹線道路があり、成立しやすい条件が揃っているからだ。
だが、それだけではない。
この場所は昔から、通る人と、止まる場所が重なる地点だった。
その構造がそのまま残り、形だけが変わった。
旅館がラブホテルに変わっただけで、「ここで一度止まる」という役割は変わっていない。
▶ 久留米のラブホテル街はなぜインター付近に集中しているのか
まとめ
御井旗崎は、久留米の外れにある場所ではない。
昔から、人の流れの上にある場所だった。
薩摩街道が通り、御井には府中宿があり、その動線は御井旗崎まで続いている。
だからこそ現在も、この場所に“泊まる機能”が残る。
ラブホテル街は突然できたものではない。
もともとそこにあった流れの上に、今の形が重なっているだけだ。
では、なぜ現在の御井旗崎にラブホテルが集中しているのか。文化街との違いや、インター立地、用途地域など現在の構造については、以下の記事で詳しく解説している。
御井旗崎のラブホテル街は、突然生まれたものではない。古い地図の上に、今の風景が重なっている。
久留米という街の流れをもう少し広く見ていくと、同じような構造はいくつも見えてくる。



