福岡県久留米市城南町にある福岡県立明善高等学校。
現在は福岡県内でも上位に位置する県立進学校として知られていますが、その歴史をたどると、単なる「進学校」という言葉では収まりません。
明善高校のルーツは、江戸時代の1783年に久留米藩が設けた学問所にあります。
そこから明善堂、明善小学、久留米師範学校、県立久留米中学校などへ姿を変えながら、現在の明善高校へとつながってきました。学校側も1783年をその起源としています。
鮎川誠、こがけん、中村八大、高島野十郎、葉室麟、石橋幹一郎など、卒業生や旧制明善校に学んだ人物も幅広い分野に及びます。
今回は、明善高校とはどのような学校なのか。
現在の進学校としての姿だけでなく、久留米藩から続く歴史と著名な出身者を見ていきます。
明善高校とは
福岡県立明善高等学校は、久留米市城南町9番1号にある県立高校です。
JR久留米駅からも近く、現在は全日制と定時制が設置されています。
全日制には普通科、普通科総合文科コース、理数科があります。
2026年度の入学者は、普通科6クラス、総合文科コース1クラス、理数科1クラスの計320人でした。
理数科では「理数探究」「理数数学特論」など普通科とは異なる専門科目が設けられ、大学や研究機関との交流なども行われています。
普通科では2年次から文系・理系に分かれ、国公立大学や私立大学など、それぞれの進路に応じた教育課程が組まれています。
現在の偏差値は70~72
民間の高校情報サイト「みんなの高校情報」の2026年度版では、明善高校の偏差値は70~72とされています。
内訳は、
- 理数科 72
- 普通科 70
- 普通科総合文科コース 70
となっており、福岡県内の公立高校でも上位に位置します。
もちろん偏差値は模試によって尺度が異なるため、学校そのものを評価する絶対的な数字ではありません。
それでも現在の明善高校が、筑後地方を代表する県立進学校の一つであることは、この数字からも見えてきます。
久留米には久留米大学附設高校もある
久留米市には、もう一つ全国的に知られる進学校があります。
久留米大学附設高校です。
2026年度版の同じ民間指標では、久留米大学附設高校の偏差値は75とされています。
ただし、明善高校と久留米大学附設高校では学校の成り立ちがまったく異なります。
久留米大学附設高校が戦後に誕生し、全国から生徒を集める難関私立進学校へ成長したのに対し、明善高校は久留米藩の学問所を源流とする県立の伝統校です。
同じ久留米にありながら、二つの学校は異なる歴史を歩んできました。
明善高校の歴史は久留米藩から始まる
明善高校の歴史をさかのぼると、江戸時代まで行き着きます。
1783年、久留米藩が学問所を設置
学校公式の沿革では、1783年2月6日、高山畏斎が藩命を受けて久留米城下の両替町に学問所を設置したことを明善校の起源としています。
当時の久留米は、有馬家が治める久留米藩でした。
つまり明善高校の源流は、久留米藩が人材を育てるために設けた教育機関にあります。
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1796年、「明善堂」となる
学問所はその後変遷し、1796年に「明善堂」と改称されました。
現在の「明善」という校名はここから受け継がれています。
学校が2026年度向けに公開している資料によると、「明善」という言葉は儒教の古典『大学』の冒頭にある「明徳」「至善」の思想を踏まえたものと説明されています。
明善という名前そのものが、江戸時代の教育思想を現在まで残しているわけです。
明善小学から久留米師範学校へ
明治維新によって教育制度が大きく変わると、明善も姿を変えていきます。
1872年には明善小学、1875年には小学校教師伝習学校、1876年には久留米師範学校となりました。
そして1879年、久留米師範学校が廃止され、新たに県立久留米中学校が設置されます。
ここには一つ興味深い点があります。
明善高校は1783年を学校の起源としていますが、現在の創立記念行事などは、県立久留米中学校が設置された1879年を基準としています。
そのため「1783年から続く240年以上の歴史」と「創立140年を超える」という二つの数え方が存在します。
旧制中学「明善校」へ
1889年には県立久留米尋常中学明善校、1899年には福岡県立中学明善校と改称されました。
ここから近代の「明善校」として、多くの人物を送り出していくことになります。
現在知られている著名人の中には、現在の明善高校卒業生だけでなく、この旧制中学時代に学んだ人物も少なくありません。
1948年、福岡県立明善高等学校へ
戦後の学制改革によって、1948年に現在の福岡県立明善高等学校となりました。
翌1949年には、旧久留米高等女学校系の福岡県立久留米高等学校と統合し、男女共学となっています。
こうして、
久留米藩の学問所
↓
明善堂
↓
明善小学
↓
久留米師範学校
↓
県立久留米中学校
↓
旧制中学明善校
↓
福岡県立明善高等学校
という長い流れができました。
なぜ明善高校は現在も進学校なのか
江戸時代の藩校だったから、現在の明善高校が進学校になった。
もちろん、そこまで単純に結びつけることはできません。
教育制度も入試制度も、江戸時代とはまったく異なります。
ただ、明善が久留米藩の学問所から始まり、明治以降も師範学校や県立中学校として地域の教育を担ってきたことは確かです。
一つの学校が240年以上、同じ形で存在してきたわけではありません。
制度が変わるたびに姿を変えながら、それでも「明善」という名前と教育の系譜が久留米に残り続けてきました。
現在の高い進学水準だけを見るよりも、そこまで含めて考えた方が、明善高校という学校の位置づけは見えやすくなります。
明善高校出身の著名人
明善高校、そしてその前身である旧制明善校からは、さまざまな分野で活躍する人物が出ています。
ここではジャンルごとに見ていきます。
芸能・音楽
鮎川誠
久留米を代表するロックミュージシャンの一人です。
シーナ&ザ・ロケッツのギタリストとして知られ、明善高校から九州大学へ進みました。
九州大学では農学部農政経済学科を卒業しています。
関連記事:鮎川誠とは何者だったのか|久留米出身のギタリストが日本のロック史に残したもの
こがけん
久留米市出身のお笑い芸人です。
明善高校から慶應義塾大学商学部へ進学。
おいでやす小田とのユニット「おいでやすこが」で2020年のM-1グランプリ準優勝を果たし、全国的に知られるようになりました。
関連記事:こがけんの実家は久留米の居酒屋
中村八大
「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」などを手がけた作曲家です。
終戦時には旧制中学明善校に在籍しており、学校の合唱団にも参加していました。その後1949年に久留米を離れ、早稲田高等学院へ編入しています。
「上を向いて歩こう」を作曲した中村八大が、少年時代を久留米で過ごし、明善校で音楽活動をしていたというのは、明善の人物史の中でも興味深いところです。
関連記事:久留米出身の芸能人一覧
文学・芸術
明善は文学や美術の世界にも多くの人物を送り出しています。
代表的な人物には、
- 高島野十郎 画家
- 葉室麟 小説家
- 酒見賢一 小説家
- 帚木蓬生 小説家・精神科医
- 斯波四郎 芥川賞作家
などがいます。
高島野十郎は明善から東京大学農学部へ進んだ異色の画家として知られています。
葉室麟は歴史小説、酒見賢一は『後宮小説』などで知られる作家です。
明善の出身者を並べてみると、進学校という印象とは別に、文学や芸術の分野でもかなり厚い人脈を持っていることが分かります。
関連記事:久留米市美術館の高島野十郎展
政治
政界にも明善出身者がいます。
古賀之士(ゆきひと)
久留米市出身。
明善高校から明治大学政治経済学部へ進み、福岡放送(FBS)に入社しました。
「ズームイン!!朝!」「めんたいワイド」などでアナウンサー、キャスターとして活動した後、2016年の参議院選挙で初当選。
2026年現在、福岡県選挙区選出の参議院議員を務めています。
泉信也
明善高校から九州大学工学部へ進み、国会議員となった人物です。
参議院議員などを務め、福田康夫内閣では国家公安委員会委員長などを務めました。
大久保勉
明善高校から京都大学経済学部へ進み、福岡県選挙区の参議院議員を務めた人物です。
明善の卒業生は、芸能や文化だけでなく政界にも広がっています。
経済・実業界
石橋幹一郎
久留米で生まれたブリヂストン創業者・石橋正二郎の長男です。
旧制中学明善校から旧制福岡高校、東京帝国大学へ進み、父の後を継いでブリヂストン社長を務めました。
久留米という都市を考えるうえで、石橋家とブリヂストンの存在は欠かせません。
明善の歴史は、久留米の産業史ともここで接続します。
関連記事:石橋正二郎は何を久留米に残したのか
真藤恒
旧日本電信電話公社総裁、民営化後のNTT初代社長を務めた実業家です。
明善出身者の中には、地域企業だけでなく日本の経済界を担った人物もいます。
スポーツ・メディア
ほかにも、
- 小川健太郎 元プロ野球選手
- 大津守 元プロ野球選手
- 財津ひろみ アナウンサー
- 豊島晋作 テレビ東京キャスター
などが明善出身者として知られています。
出身者を追っていくだけでも、明善高校という学校が久留米のさまざまな分野とつながっていることが見えてきます。
久留米大学附設高校の出身者も見る
久留米の進学校という視点では、久留米大学附設高校も忘れることはできません。
明善が久留米藩以来の歴史を持つ県立高校であるのに対し、附設は戦後に設立され、全国的な難関進学校へと成長しました。
附設からも、医学、政界、経済界、芸能界などさまざまな分野へ人物が出ています。
二つの学校の出身者を比べてみると、「久留米という都市がどのような人材を送り出してきたのか」という別の景色も見えてきます。
関連記事:久留米大学附設中学・高校出身の有名人一覧
明善高校は「久留米の教育史」そのものでもある
現在の明善高校だけを見れば、偏差値70前後の県立進学校です。
しかし、その歴史をさかのぼると1783年の久留米藩の学問所に行き着きます。
明善堂、明善小学、久留米師範学校、県立久留米中学校、旧制中学明善校。
時代によって学校の制度も名称も変わってきました。
それでも明善という教育の系譜は久留米に残り続けています。
そして、そこから鮎川誠、こがけん、中村八大、高島野十郎、葉室麟、石橋幹一郎、古賀之士など、まったく異なる分野の人物が出ていきました。
明善高校を見ることは、単に一つの進学校を見ることではありません。
久留米が江戸時代からどのように人を育て、その人々が外の世界へ出ていったのか。
明善高校は、その流れを現在までたどることのできる学校の一つなのです。
