天草四郎とは何者だったのか。
島原の乱の象徴として知られるこの少年には、今も多くの謎が残されています。
この記事では、原城跡を実際に訪れた体験と史料をもとに、天草四郎と島原の乱の謎を整理してみます。
なぜか中学生のころから、私は天草四郎という人物が気になっていました。
きっかけははっきり覚えていません。
ただ当時は本気で、「自分は天草四郎の生まれ変わりなのではないか」と考えていた時期さえありました。
そんな思いがどこかに残っていたのかもしれません。
島原の乱の最後の舞台となった原城跡には、長いあいだ行くことができませんでした。
しかし今回、ようやく訪れることができました。
実際に現地に立ってみると、不思議と「初めて来た場所ではない」ような感覚がありました。
この記事では、原城跡の現在の様子とともに、
天草四郎とは何者だったのか、そして島原の乱に残る謎を整理してみたいと思います。
原城跡の現在|島原の乱の舞台となった城
原城跡は、長崎県島原半島の南部、海岸沿いにあります。
ここは1637年に起きた島原の乱の最後の戦場となった場所です。
現在は城郭は残っておらず、広い畑や草地が広がる静かな場所になっています。
以前紹介した雲仙温泉からは車で約30分ほどの距離です。
島原と天草は現在では長崎県と熊本県に分かれていますが、当時は有明海を挟んだ同じ文化圏でした。
天草四郎も、現在の熊本県宇土周辺から長崎のカトリック学校に通っていたといわれています。
また、有明海の中央には湯島(談合島)という小島があります。
ここは島原・天草の一揆首謀者たちが作戦会議を開いた場所として知られています。
原城跡への行き方
原城温泉「真砂」の駐車場(無料)を利用し、海岸沿いを歩いて向かうルートがおすすめです。
駐車場から原城跡までは徒歩約15分。
道は一本道で、案内もあるため迷うことはありません。
左手には有明海が広がり、遠くには天草の島々が見えます。
約400年前、この海を挟んで多くの人々が集まり、そして戦いに向かいました。
潮風の中を歩いていると、当時ここに集まった人々の気持ちを想像せずにはいられません。
原城跡の様子
原城跡は、一般的に想像する城とはまったく違います。
石垣や天守が残っているわけではなく、現在は畑や草地が広がる静かな場所です。
観光地らしい雰囲気はほとんどなく、むしろ地元の人が普通に農作業をしている光景が見られます。
丘の上には広場があり、そこに慰霊碑や像が建てられています。
キリシタン慰霊碑
島原の乱で亡くなった人々を弔う慰霊碑があります。
天草四郎像
広場には天草四郎の像も建てられています。
天草四郎の墓


天草四郎の墓とされる石もあります。
もともとは西有家町の民家の石垣にあったものが、この場所に移されたと説明されています。
天草四郎とは何者だったのか|残された3つの謎
天草四郎の本名は 益田四郎 といいます。
島原の乱のとき、彼はまだ 16歳の少年でした。
それにもかかわらず、なぜ彼は3万人ともいわれる軍勢の象徴となったのでしょうか。
ここにはいくつかの説があります。
天草四郎の謎① キリストの生まれ変わり説
島原の乱はキリシタン一揆でもありました。
そのため天草四郎は
「キリストの生まれ変わり」
という存在として語られることがあります。
実際、当時の記録には四郎が奇跡を起こしたという伝説も残っています。
もちろん史実かどうかはわかりませんが、信仰をまとめる象徴として利用された可能性は高いでしょう。
天草四郎の謎② なぜ16歳で大軍の象徴になったのか
四郎の父、益田好次は小西家に仕えていた人物でした。
関ヶ原の戦いで小西家が滅んだあと、多くの旧家臣が浪人となります。
その元武士たちが、農民やキリシタンをまとめるために
天草四郎という象徴を作り上げた
という説もあります。
天草四郎の謎③ 豊臣家の血筋説
天草四郎には、もう一つ有名な説があります。
それは
豊臣秀吉の血を引く人物だったのではないか
というものです。
真偽は不明ですが、この説が広まったことで、旧豊臣系の浪人たちが一揆に参加した可能性も考えられます。
島原の乱とは何だったのか
島原の乱は一般的には
キリシタン一揆
と説明されます。
しかしそれだけではありません。
旧豊臣系の浪人、農民、キリシタンなどが結集した結果、一揆軍は 約3万人という大軍になりました。
対する江戸幕府は 約13万人の軍勢を送り込みます。
結果は圧倒的な戦力差による敗北でした。
原城に立てこもった一揆軍は全滅します。
この戦いによって、徳川幕府は日本国内の反抗勢力を完全に抑え込んだともいわれています。
島原の乱のその後
天草四郎は討ち取られ、その首は長崎で晒されたと伝えられています。
また、島原と天草では多くの農民が亡くなったため、幕府は各地から移民を送り込みました。
現在この地域に住んでいる人々の多くは、その後に移住してきた人々の子孫だともいわれています。
ちなみに島原の乱という呼び方が一般的ですが、天草側では
天草・島原の乱
と呼ばれることもあります。
まとめ|歴史の謎はまだ残っている
原城跡に立ってみると、歴史の教科書だけではわからない空気を感じます。
天草四郎は本当に奇跡の少年だったのか。
それとも、時代の中で作られた象徴だったのか。
答えは今もはっきりしていません。
しかし一つだけ確かなことがあります。
それは、ここ原城で多くの人々が命を落としたという事実です。
歴史は断続せず、連綿と続いています。
九州では古くは磐井の乱から中央政権との争いが続き、近代には西南戦争へとつながっていきます。
そう考えると、島原の乱もまた、日本史の大きな流れの中にある出来事なのかもしれません。

関連記事
▶磐井の乱とは何だったのか


