久留米藩士はなぜ匿った人物を殺したのか|大楽源太郎暗殺事件と明治初期の混乱

大楽源太郎事件とは 歴史と文化
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明治初期の久留米で、ひとつの暗殺事件が起きた。

殺されたのは、長州出身の大楽源太郎(だいらく・げんたろう)。
殺したのは、彼を匿っていた久留米藩士たちだった。

なぜ、守っていたはずの人物を殺すことになったのか。

この事件の背景には、明治維新直後の混乱がある。江戸幕府が倒れ、明治政府が成立しても、世の中がすぐに落ち着いたわけではない。旧藩士たちは、幕末から続く思想と、新しい国家の現実の間で揺れていた。

大楽源太郎暗殺事件は、その揺れが久留米で噴き出した事件である。

この記事では、大楽源太郎とは何者だったのか、なぜ久留米に逃れたのか、そして久留米藩士たちはなぜ暗殺という判断に至ったのかを、順を追ってわかりやすく整理していく。

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大楽源太郎(だいらく・げんたろう)暗殺事件とは何だったのか

大楽源太郎暗殺事件とは、明治4年、現在の暦では1871年に久留米で起きた暗殺事件である。

殺されたのは、長州出身の大楽源太郎。
彼は幕末から明治初期にかけて活動した人物で、尊王攘夷運動に関わっていた。

大楽源太郎は、明治政府から追われる立場となり、久留米へ逃れた。
そこで彼を受け入れたのが、久留米藩内の尊王攘夷派の藩士たちだった。

しかし最終的に、大楽源太郎は久留米藩士によって暗殺される。

この事件のわかりにくさは、ここにある。
外から来た敵を討った事件ではない。
反乱軍と政府軍が戦った事件でもない。

匿った側が、匿っていた人物を殺したのである。

だからこそ、この事件を理解するには、まず大楽源太郎という人物と、明治初期の久留米藩が置かれていた状況を見ていく必要がある。

大楽源太郎暗殺事件が起きた明治4年3月の時点では、久留米藩はまだ存在していた。廃藩置県によって久留米藩が廃止され、久留米県となるのは同じ明治4年の7月である。つまりこの事件は、藩という仕組みが消える直前、旧藩体制の最後の混乱の中で起きた事件だった。

関連記事:久留米県とは何だったのか

大楽源太郎とは何者だったのか

大楽源太郎は、長州藩出身の人物である。

長州藩とは、現在の山口県にあたる地域を治めていた藩で、幕末には倒幕運動の中心のひとつとなった。
高杉晋作や木戸孝允など、明治維新に関わる人物を多く出した地域でもある。

長州という土地の空気を知るには、萩に残る松下村塾や吉田松陰の存在を見るとわかりやすい。久留米から萩への日帰り観光については、関連記事「久留米おすすめ日帰り!!山口県萩市・松下村塾と吉田松陰ガイド」でも紹介している。

大楽源太郎もまた、幕末の政治運動の中で活動した人物だった。

彼が関わったのは、尊王攘夷の運動である。

尊王攘夷とは、簡単に言えば、天皇を重んじ、外国勢力を退けようとする考え方である。幕末の日本では、外国船の来航や開国要求によって、国のあり方が大きく揺れていた。

その中で、幕府では日本を守れないと考える人々が現れる。
彼らは、天皇を中心に国を立て直し、外国に対して強い態度を取るべきだと考えた。

大楽源太郎は、そうした時代の空気の中にいた人物だった。

ただし、明治維新が起きると、状況は大きく変わる。

かつて幕府を倒す側にいた人々の一部は、新しい明治政府の中に入っていった。
一方で、維新後も急進的な思想を持ち続けた人々は、今度は明治政府にとって危険な存在と見なされるようになる。

大楽源太郎は、その境目にいた人物だった。

なぜ大楽源太郎は久留米に逃れたのか

大楽源太郎は、明治政府から追われる立場となり、各地を逃れた末に久留米へ入った。

では、なぜ久留米だったのか。

そこには、久留米藩内にあった尊王攘夷派の存在が関係している。

久留米藩にも、幕末から明治初期にかけて、尊王攘夷思想を持つ藩士たちがいた。彼らは、明治政府ができたあとも、急進的な思想を持ち続けていた。

大楽源太郎は、そうした久留米藩士たちを頼った。
つまり、久留米に偶然逃げ込んだのではなく、思想的なつながりを求めて久留米に入ったのである。

ここが重要である。

大楽源太郎は、久留米藩士にとって最初から敵だったわけではない。
むしろ、同じ思想を持つ人物として受け入れられた。

だから久留米藩士たちは彼を匿った。
しかし、その行動がやがて久留米藩全体を危険にさらすことになる。

関連記事:久留米藩とは何だったのか

明治政府はなぜ大楽源太郎を危険視したのか

明治政府は、できたばかりの新しい政府だった。

江戸幕府は倒れたが、全国がすぐに新政府のもとでまとまったわけではない。各地にはまだ旧藩の力が残り、武士たちもそれぞれの思想や不満を抱えていた。

その中で、政府にとって最も避けたいのは、各地の旧藩士たちが勝手に結びつき、反政府的な動きを広げることだった。

大楽源太郎のような人物は、その火種になり得る。

特に久留米藩内の尊王攘夷派が彼を匿っているとなれば、明治政府からすれば、それは単なる逃亡者の保護では済まない。

久留米藩が反政府的な動きに加担している。
そう見なされる危険があった。

この時点で、大楽源太郎は久留米藩にとっても重い存在になっていく。

久留米藩難事件とは何か

大楽源太郎暗殺事件は、久留米藩難事件と呼ばれる一連の出来事の中で起きた。

久留米藩難事件とは、明治初期に久留米藩の尊王攘夷派が大楽源太郎を保護したことをきっかけに、明治政府が久留米藩を問題視し、関係者が処分されていく事件である。

簡単に言えば、久留米藩の内部にあった急進的な勢力と、明治政府との衝突だった。

この事件では、久留米藩そのものが危険な立場に置かれた。

大楽源太郎を守り続ければ、明治政府に逆らうことになる。
しかし大楽源太郎を差し出せば、思想的に近い人物を裏切ることになる。

久留米藩士たちは、ここで厳しい選択を迫られた。

その結果として起きたのが、大楽源太郎の暗殺である。

なぜ久留米藩士は匿った人物を殺したのか

久留米藩士たちが大楽源太郎を殺した理由は、ひとことで言えば、久留米藩を守るためだった。

大楽源太郎を匿い続ければ、久留米藩は明治政府から反政府勢力の拠点と見なされる可能性があった。
そうなれば、関係者だけでなく、藩全体が厳しい処分を受ける危険がある。

久留米藩士たちは、思想的な共感よりも、藩の存続を優先した。

この判断は冷たい。
しかし、明治初期の混乱の中では、彼らにとって現実的な判断でもあった。

大楽源太郎は、久留米藩士にとって思想的には近い存在だった。
だが同時に、久留米藩を危険にさらす存在にもなっていた。

その矛盾を、久留米藩士たちは暗殺という形で断ち切った。

有馬家はこの事件でどのような立場だったのか

大楽源太郎が暗殺された後、この事件は藩士たちだけの問題では済まなくなった。久留米藩そのものが明治政府から責任を問われることになり、その中心にいたのが最後の久留米藩主・有馬頼咸だった。

事件が起きた明治4年3月の時点で、久留米藩はまだ存在していた。ただし、すでに江戸時代の藩主そのままの立場ではない。明治2年の版籍奉還によって、最後の久留米藩主・有馬頼咸は「久留米藩知事」となっていた。

つまり有馬頼咸は、旧藩の殿様でありながら、同時に明治政府のもとで久留米藩を治める地方長官でもあった。

大楽源太郎を匿い、政府に対する挙兵計画に関わった中心は、久留米藩内の尊王攘夷派の藩士たちだった。頼咸自身が暗殺を直接命じたというより、藩内の急進派の動きを抑えきれなかった最高責任者と見る方が自然である。

しかし、藩のトップである以上、責任を免れることはできなかった。

大楽源太郎の保護や挙兵計画が明治政府に知られれば、久留米藩全体が反政府的な勢力と見なされる危険があった。有馬家にとっても、これは藩の存続に関わる重大な問題だった。

事件後、関係者は処分され、有馬頼咸も閉門処分を受けた。

ただし、ここで注意したいのは、頼咸が久留米県知事にならなかったことを、この事件だけによる失脚と見るのは正確ではないという点である。

同じ明治4年7月、廃藩置県によって久留米藩は廃止され、久留米県となった。このとき藩知事という制度そのものがなくなり、旧藩主がそのまま県知事になる仕組みでもなかった。つまり、有馬頼咸が県のトップにならなかったこと自体は、久留米だけの特別な処分ではなく、全国的な制度変更の結果でもあった。

その意味で、大楽源太郎暗殺事件は、有馬家を単独で失脚させた事件というより、久留米藩が制度として消える直前に起きた、旧藩体制最後の統治危機だったと言える。

関連記事:有馬家とは何だったのか

明治維新後の混乱が事件を生んだ

この事件を理解するには、明治維新を「新しい時代が始まった明るい出来事」とだけ見ないことが大切である。

明治維新によって江戸幕府は倒れた。
しかし、それで世の中がすぐに安定したわけではない。

むしろ維新直後は、非常に不安定な時代だった。

武士たちは、これまでの身分や役割を失いつつあった。
各地の藩は、明治政府のもとに組み込まれようとしていた。
かつて同じ尊王攘夷を掲げていた人々も、新政府側と反政府側に分かれていった。

昨日まで同じ方向を向いていた人間が、今日は敵になる。

大楽源太郎暗殺事件は、そのような時代のねじれから生まれた事件である。

大楽源太郎暗殺事件は久留米に何を残したのか

大楽源太郎暗殺事件は、全国的にはそれほど知られていない。

西南戦争や廃刀令のように、多くの人が名前を知っている事件ではない。
しかし、久留米の歴史を考えるうえでは避けて通れない事件である。

なぜなら、この事件には明治初期の久留米が置かれた苦しい立場が表れているからだ。

久留米藩士たちは、思想に共鳴して大楽源太郎を受け入れた。
しかし明治政府の圧力の中で、その人物を守り続けることができなくなった。

その結果、匿っていた人物を自分たちの手で殺すという判断に至った。

この事件は、久留米藩が明治という新しい国家に組み込まれていく過程で起きた、痛ましい断絶だったと言える。

まとめ|久留米藩士はなぜ大楽源太郎を暗殺したのか

大楽源太郎暗殺事件とは、明治初期の久留米で、久留米藩士たちが匿っていた大楽源太郎を暗殺した事件である。

大楽源太郎は長州出身の人物で、幕末の尊王攘夷運動に関わっていた。
明治維新後、政府に危険視される存在となり、思想的につながりのあった久留米藩士たちを頼って久留米へ逃れた。

しかし、その保護は久留米藩にとって大きな危険となった。

明治政府に逆らうのか。
それとも大楽源太郎を切り捨てるのか。

久留米藩士たちは後者を選んだ。

大楽源太郎暗殺事件は、単なる殺人事件ではない。
明治維新直後の混乱の中で、旧藩士たちが思想と現実の間で引き裂かれた事件である。

久留米藩士はなぜ匿った人物を殺したのか。

その答えは、久留米藩を守るためだった。

そしてその判断の冷たさが、この事件を今も忘れがたいものにしている。

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