「筑後七国」という言葉を見かけることがあります。
しかし、こう思ったことはないでしょうか。
筑後といえば久留米のはずなのに、なぜ現在の筑後七国には久留米が入っていないのか。
この疑問はもっともです。
結論から言うと、現在の筑後七国と、もともとの筑後七国は別のものです。
そして久留米が入っていないのには、はっきりとした理由があります。
まずは現在の筑後七国から見ていきます。
現在の筑後七国とは何か
現在使われている筑後七国は、次の7つの自治体で構成されています。
- 大川市(匠のくに)
- 柳川市(水のくに)
- 大木町(穀のくに)
- 筑後市(恋のくに)
- みやま市(幸のくに)
- 広川町(果のくに)
- 八女市(茶のくに)
これは歴史上の区分ではありません。
筑後地方の自治体が連携し、観光や地域発信のために作られた広域的な枠組みです。
つまり現在の筑後七国は、昔から続いている区分ではなく、現代の目的に合わせて使われている名称になります。
なぜ久留米は筑後七国に入っていないのか
ここが一番気になるポイントです。
結論は単純で、久留米が筑後の中心都市だからです。
現在の筑後七国は、複数の自治体がまとまって一つのエリアをつくるための枠組みです。その中に久留米が入っていないのは、関係が薄いからではありません。
むしろ逆です。
久留米一市の存在感が大きいため、同じ枠組みに入れると全体のバランスが崩れてしまいます。
人口、商業、交通、医療。
筑後地方の中核となる機能は久留米に集まっています。
そのため現在の構造は、久留米と、それ以外の7自治体という関係になっています。
言い換えれば、7つの自治体がまとまることで、久留米という一つの都市に対して一つの圏域として対抗または成立しようとしているのです。
つまり、久留米は外されたのではなく、七国の一つとして数えるには大きすぎる街なのです。
本来の筑後七国とは何か
では、もともとの筑後七国とは何だったのでしょうか。
本来の筑後七国は、筑後国の内部を分けた歴史的な地域区分です。
古代から中世にかけて、この一帯は「筑後国」と呼ばれ、さらに内部が分かれていました。
代表的な区分は次の通りです。
- 久留米
- 柳川
- 八女
- 三潴
- 山門
- 三池
- 生葉(現在のうきは市周辺)
多少の異説はありますが、筑後全体を構成するまとまりとして考えて問題ありません。
そして本来の筑後七国には、久留米はしっかり含まれています。
現在の筑後七国との違い
ここまでを見ると違いは明確です。
本来の筑後七国は、地理や統治に基づく歴史的な区分です。
一方で現在の筑後七国は、その名前を使いながら、観光や地域連携のために再構成されたものです。
同じ言葉でも、中身は同じではありません。
もともとあった名称を、現代の目的に合わせて使い直しているのです。
まとめ
筑後七国とは、もともと筑後国を構成する歴史的な地域区分です。
しかし現在使われている筑後七国は、その名称を利用した広域観光の枠組みです。
そして久留米が含まれていない理由も明確です。
久留米は筑後の中心都市であり、七国の一つとして数えられる側ではなく、七国がまとまることで向き合う存在になっているからです。
筑後七国という言葉は、歴史の中で生まれ、現在は別のかたちで使われています。
そしてその中にある一つ一つの地域は、今もそれぞれの表情を持っています。
筑後というエリアを実際に歩いてみると、こうした違いは地図以上にはっきりと見えてきます。
久留米を起点に筑後全体を知りたい方は、こちらも参考にしてください。
また、筑後七国の一つである筑後市については、神社を軸に地域の成り立ちが見えてきます。




