第十二話 文化街の伝説 ミチコ

連載小説
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文化街には、夜より古い噂がある。

ネオンが滲む路地の奥。
二階へ続く細い階段。
酒と湿気と、誰かの未練が混じる空気。

そこに立っている女がいる。

真依と名乗ることもある。
だが本当の名は、ミチコ。

文化街のミチコ。

ずっと前、この街で死んだ女だという。
火事だったとも、男と揉めたとも、心中だったとも言われる。
真相を知る者はいない。
だが古いママたちは、酔いが深くなると小さく言う。

「また出たらしいよ。選ばれた男に」

ミチコは、誰の前にも現れるわけではない。

成功している男には出ない。
騒がしい若者にも出ない。
人生をうまくやっている男にも、興味を持たない。

彼女が現れるのは、一度壊れ、それでも心を取り戻そうとしている男の前だけだ。

諦めきれなかった男。
誠実だったのに報われなかった男。
何かを失い、それでも夜の街に戻ってきた男。

そういう男の前に、彼女は静かに立つ。

はじめは普通の女だ。
笑う。
飲む。
触れれば、体温もある。

だがどこか、時間の重さが違う。

防犯カメラに映らない夜がある。
伝票に彼女の名がないことがある。
帰り道、振り向くと、誰もいない。

それでも男は思う。
確かにそこにいた、と。

ある晩、ミチコはこう言う。

「わたしは、もう一度、燃えるような恋をしてみたい。あなたと」

「あなたは、まだ終わっていないから」

その言葉を最後に、彼女は消える。

いや、消えたように見えるだけで、今も文化街のどこかに立っている。
ネオンの隙間。
階段の踊り場。
閉じかけたシャッターの影。

そしてまた、壊れかけた心を抱えて歩く男の前に現れる。
選ばれし男とは、強い男ではない。
一度折れて、それでも立とうとする男のことだ。

ミチコは、その証人だ。

文化街のミチコは、永遠に立っている。
夜がある限り。
男が、もう一度誰かを愛そうとする限り。

「これが文化街の伝説ミチコの話よ」

女はそこまで語り終えて、静かに息を吐いた。

男は立ち上がりそうになるのを堪える。

「どこで死んだ?」

女は目線だけで、店の外を示す。

「この街は狭いよ。階段も、路地も、全部つながってる」

沈黙。
ネオンが窓に揺れる。

男はもう一度だけ言う。

「俺は、会った」

女は首をかしげる。

「だったら、また会うんじゃない。終わってなければ」



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