なぜ久留米には日吉神社が多いのか|三つの日吉神社の歴史から見る街の成り立ち

なぜ久留米には日吉神社が多いのか 歴史と文化
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久留米市内には、同じ「日吉神社」という名前の神社がいくつもある。

日吉町の日吉神社。
国分町の日吉神社。
西町の日吉神社。

いずれも久留米市の中心部から大きく離れた場所にあるわけではない。現在の地図だけを見れば、比較的近い範囲に同じ名前の神社が複数あるように見える。

では、なぜ久留米には日吉神社が多いのか。

久留米の日吉神社をたどることは、神社をたどることにとどまらない。

久留米という街が、どのような時間を重ねて現在の姿になったのかを読むことでもある。

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久留米には、なぜ日吉神社がいくつもあるのか

久留米市内を歩いていると、「日吉神社」という名前の神社を複数見かける。

日吉町、西町、国分町。

同じ市内に同じ名前の神社があるため、神社に詳しくない人には少しややこしく感じられるかもしれない。

だが、日吉神社そのものは全国的に珍しい存在ではない。

日吉神社、日枝神社、山王神社は、滋賀県大津市にある日吉大社を総本宮とする山王信仰の流れをくむ神社である。日吉大社の公式情報では、全国に約三千八百社の日吉・日枝・山王神社があるとされている。

つまり、久留米に日吉神社が複数あること自体は、全国的な信仰の広がりから見れば不思議ではない。

しかし、ここで見たいのは、単なる数の話ではない。

「日吉神社は全国に多い。だから久留米にも多い」

それだけなら、記事にするほどの深みはない。

久留米の三つの日吉神社が面白いのは、それぞれが違う歴史の層を背負っている点である。

国分町の日吉神社は、古い地域信仰の記憶を持つ。
日吉町の日吉神社は、久留米城と城下町の記憶を持つ。
西町の日吉神社は、城下周辺に広がった暮らしの記憶を持つ。

同じ日吉神社という名の下に、久留米の異なる時間が重なっている。

三つの日吉神社を並べると、久留米の歴史は一つの中心だけでは語れないことが見えてくる。

一番古い由緒を持つ国分町の日吉神社

国分日吉神社全景
国分町の日吉神社

三つの日吉神社の中で、由緒上もっとも古いと見られるのは、日吉町ではなく国分町の日吉神社である。

現在の地図感覚では、日吉町の日吉神社の方が久留米中心部に近く、代表的な神社に見える。実際、日吉町の日吉神社は久留米宗社として知られ、現在の市街地との結びつきも強い。

しかし、創建由緒で見れば、国分町の日吉神社はさらに古い時間を背負っている。

国分町の日吉神社は、承平二年、932年に山王宮を建立したことに始まるとされる。戦国時代の天正七年、1579年に兵火で社屋を焼失し、その後、寛永九年、1632年に再建されたと伝えられている。

932年といえば平安時代である。
久留米城下町が整えられるよりも、はるかに前の時代だ。

久留米の歴史を考えるとき、どうしても久留米城や有馬家、城下町から話を始めたくなるが、国分町の日吉神社の由緒を見ると、久留米の土地には、城下町ができる以前から地域の信仰があったことがわかる。

一言でいうと、国分町の日吉神社は、城下町以前の久留米を伝えている神社である。

久留米の歴史は、城から始まったわけではない。その前から、土地があり、村があり、人の暮らしがあり、祈りがあった。

国分町の日吉神社は、その古い時間を今に残している。

関連記事:国分町の日吉神社

久留米城とともに動いた日吉町の日吉神社

日吉町の日吉神社
日吉町の日吉神社

次に、日吉町の日吉神社である。

久留米市内で日吉神社といえば、まず日吉町の日吉神社を思い浮かべる人も多いだろう。

正式には、久留米宗社 日吉神社として知られている。

日吉町の日吉神社は、平安時代末の治承年間、1177年から1181年ごろに、久留米の豪族である松田庄左衛門が笹山という場所を開き、その守護神として祀ったことに始まるとされる。その後、久留米城御本丸の地主神として祀られ、正保四年、1647年に久留米城内から現在地へ遷座した。

ここで重要なのは、日吉町の日吉神社が、最初から現在の日吉町にあったわけではないという点である。もともとは、現在の久留米城跡、篠山神社周辺に近い場所に関わる山王宮だった。それが城郭整備の流れの中で移され、現在の日吉町にあたる場所へ遷座したのである。

しかも、当時その場所は「日吉町」ではなかった。

現在の日吉町にあたる場所は、江戸時代には十間屋敷と呼ばれていた。日吉神社の由緒でも、正保四年に現在地へ移された後、「東久留米山王宮」または「十間屋敷山王宮」と呼ばれていたとされる。

つまり、現在の私たちは「日吉町に日吉神社がある」と考える。しかし、歴史の順番としては逆である。もともとその場所は、日吉町ではなかった。十間屋敷と呼ばれた城下の一角に山王宮が移され、明治に入って神仏分離の流れの中で日吉神社となり、その神社の名を背負うように日吉町という町名が生まれた。

町が神社を持ったのではない。神社の記憶が、町の名になったのである。

ここに、日吉町の日吉神社の面白さがある。

この神社は、現在では縁結び、子授け、安産などのご利益で知られる身近な神社でもある。境内には、産霊宮、夫婦銀杏、月読宮、大乗院稲荷神社なども祀られている。

だが、歴史の目で見ると、この神社はそれだけではない。

久留米城の地主神として祀られ、城内安全祈願や藩主の初宮詣なども行われ、第4代久留米藩主からは「久留米宗社」の称号を受けたとされる。つまり、日吉町の日吉神社は、単なる地域の神社ではない。久留米城と城下町の形成に深く関わった神社である。

国分町の日吉神社が、城下町以前の古い地域信仰を伝える神社だとすれば、日吉町の日吉神社は、久留米が城下町として形づくられていく時代の記憶を背負った神社である。

関連記事:日吉町の日吉神社

西町の日吉神社に残る、城下周辺の暮らし

西町日吉神社本殿
西町の日吉神社

三つ目は、西町の日吉神社である。

西町の日吉神社は、日吉町の日吉神社ほど中心的な知名度があるわけではない。

また、国分町の日吉神社ほど古い創建由緒を前面に出す神社でもない。

しかし、西町の日吉神社には、久留米城下町の周辺に広がっていった暮らしの記憶がある。

西町の日吉神社の由緒では、元和七年、1621年に有馬家初代藩主の有馬豊氏が久留米へ入国した際、供奉してきた鞍師が西町の広野を与えられ、村落を開いたとされる。その後、城内より分霊を受けて、村の産土神として祀ったという。

ここには、日吉町や国分町とは違う面白さがある。日吉町の日吉神社は、久留米城と城下町の中心に関わる神社である。国分町の日吉神社は、城下町以前から続く古い地域の信仰を伝える。一方、西町の日吉神社は、城下の周辺に人が住み、仕事をし、地域をつくっていった過程を伝えている。

鞍師とは、馬具の鞍をつくる職人である。有馬豊氏の入国にともなって久留米へ来た人々の中には、武士だけでなく、さまざまな職人や技術を持つ人々がいた。その人々が土地を与えられ、村を開き、城内から分霊を受けて地域の産土神を祀る。

ここには、城下町がただ城と藩主によってできたのではないことが表れている。城があり、藩主がいる。そして、その周辺には職人がいて、村があり、日々の生活があった。その生活の中で祀られたのが、西町の日吉神社だったのである。

西町の日吉神社は、派手な歴史の中心に立つ神社ではないかもしれない。しかし、久留米の街が実際にどのように広がっていったのかを考える上では、大事な神社である。歴史は、城だけではできていない。城の周りで暮らした人々の手によって、街は厚みを持っていく。

西町の日吉神社は、その暮らしの厚みを今に残している。

関連記事:西町の日吉神社

三つの日吉神社は、久留米の三つの時間を示している

ここまで見てくると、三つの日吉神社は、単に同じ名前の神社が近い範囲にあるだけではないことがわかる。

それぞれが、久留米の違う時間を背負っている。

国分町の日吉神社は、城下町以前の久留米である。
承平二年、932年に山王宮を建立したことに始まるとされる由緒は、久留米城が整備されるよりずっと前から、この地域に信仰があったことを示している。

日吉町の日吉神社は、久留米城と城下町の久留米である。
笹山の守護神として始まり、久留米城の地主神となり、城郭整備の中で現在地へ移された。そして、その神社の名が、のちに日吉町という町名にもつながっていった。

西町の日吉神社は、城下周辺に広がった暮らしの久留米である。
有馬豊氏の入国後、供奉してきた鞍師が村落を開き、城内から分霊を受けて地域の産土神として祀ったという由緒は、城下町の外側に広がる生活の記憶を伝えている。

整理すると、三つの日吉神社は、それぞれ違う役割を持っている。

・国分町には、城下町以前の古い地域信仰がある。
・日吉町には、久留米城と城下町の中心の記憶がある。
・西町には、城下周辺に広がった暮らしの記憶がある。

現在の地図では、これらは比較的近い範囲にある神社として見える。しかし、その下には別々の時間が流れている。

これが、三つの日吉神社を並べて見る面白さである。

まとめ|なぜ久留米には日吉神社が多いのか

では、なぜ久留米には日吉神社が多いのか。

その答えは、単に「山王信仰が広がったから」だけではない。

久留米という街が、いくつもの時間と生活圏を重ねながらできてきたからである。

・国分町の日吉神社は、城下町以前の古い地域信仰を伝えている。
・日吉町の日吉神社は、久留米城と城下町の記憶を背負っている。
・西町の日吉神社は、城下周辺に広がった暮らしと地域の鎮守を今に残している。

三つの日吉神社をたどると、久留米の歴史は一つの中心だけで語れないことがわかる。現在の地図では近くに見える神社も、その下には、それぞれ別の時代、別の土地、別の暮らしがある。それらが重なりながら、今の久留米市街地になっている。

日吉町、国分町、西町。三つの日吉神社をめぐることは、神社をめぐることでもあり、久留米の歴史の地層を歩くことでもある。

三つの日吉神社を実際に歩いた記事はこちら。

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