文化街には、夜より古い噂がある。
ネオンが滲む路地の奥。
二階へ続く細い階段。
酒と湿気と、誰かの未練が混じる空気。
そこに立っている女がいる。
真依と名乗ることもある。
だが本当の名は、ミチコ。
文化街のミチコ。
ずっと前、この街で死んだ女だという。
火事だったとも、男と揉めたとも、心中だったとも言われる。
真相を知る者はいない。
だが古いママたちは、酔いが深くなると小さく言う。
「また出たらしいよ。選ばれた男に」
ミチコは、誰の前にも現れるわけではない。
成功している男には出ない。
騒がしい若者にも出ない。
人生をうまくやっている男にも、興味を持たない。
彼女が現れるのは、一度壊れ、それでも心を取り戻そうとしている男の前だけだ。
諦めきれなかった男。
誠実だったのに報われなかった男。
何かを失い、それでも夜の街に戻ってきた男。
そういう男の前に、彼女は静かに立つ。
はじめは普通の女だ。
笑う。
飲む。
触れれば、体温もある。
だがどこか、時間の重さが違う。
防犯カメラに映らない夜がある。
伝票に彼女の名がないことがある。
帰り道、振り向くと、誰もいない。
それでも男は思う。
確かにそこにいた、と。
ある晩、ミチコはこう言う。
「わたしは、もう一度、燃えるような恋をしてみたい。あなたと」
「あなたは、まだ終わっていないから」
その言葉を最後に、彼女は消える。
いや、消えたように見えるだけで、今も文化街のどこかに立っている。
ネオンの隙間。
階段の踊り場。
閉じかけたシャッターの影。
そしてまた、壊れかけた心を抱えて歩く男の前に現れる。
選ばれし男とは、強い男ではない。
一度折れて、それでも立とうとする男のことだ。
ミチコは、その証人だ。
文化街のミチコは、永遠に立っている。
夜がある限り。
男が、もう一度誰かを愛そうとする限り。
「これが文化街の伝説ミチコの話よ」
女はそこまで語り終えて、静かに息を吐いた。
男は立ち上がりそうになるのを堪える。
「どこで死んだ?」
女は目線だけで、店の外を示す。
「この街は狭いよ。階段も、路地も、全部つながってる」
沈黙。
ネオンが窓に揺れる。
男はもう一度だけ言う。
「俺は、会った」
女は首をかしげる。
「だったら、また会うんじゃない。終わってなければ」


