家に帰って、シャワーを浴びて、テレビ画面をつける。
男にとっては、いつもと同じ夜だった。
特別なことは何もしていないのに、頭のどこかで真依とすごした昼の久留米が引っかかっていた。
何も起きなかった。
それは、はっきりしている。
でも、何もなかった、とは言い切れなかった。
真依からメッセージが届いたのは、翌日の夕方だった。
「昨日は、ありがとうございました」
それだけだった。
短くて、他人行儀で丁寧、感情の温度が分からない文章だった。
少し近くなった距離感を、また元に戻された気がした。
バーカウンター1枚分の、いつもの、あの距離に。
「こちらこそ。時間作ってくれて、ありがとう」
それから、やり取りは自然に続いた。
お互い何か確信めいたことを言うわけでもない。
どれも、どうでもいい内容だった。
でも、途切れなかった。
文化街の話は、どちらからもしなかった。
夜の話を持ち出すと、何かが壊れそうな気がした。
数日後、男の方からメッセージを送った。
「来週、時間ある?」
会いたい、とは書けなかった。
返事が来るまでの時間が、やけに長く感じられた。
「少しなら」
具体的な日時を決める。
場所は、まだ決めない。
決めなくてもいい気がしていた。
「じゃあ、来週!」
男は、送信ボタンを押したあと、少しだけ息を吐いた。
これは、恋だろうか?
そう呼ぶには、まだ早い。
でも、終わった関係でもない。
文化街の夜から始まった“何か”が、いつの間にか、昼の生活の中に入り込んでいた。
その微妙な変化。
それだけで、男には、十分だった。
つづく



