福岡県久留米市大善寺町に鎮座する、大善寺玉垂宮(だいぜんじ たまたれぐう)。
この社は筑後地方を代表する古社の一つであり、その歴史は神代にまで遡るともいわれます。
古代豪族「水沼君(みぬまのきみ)」との深い関わり、さらには筑後一の宮・高良大社(こうらたいしゃ)とのつながりなど、多層的な歴史が折り重なっています。
今回は、そんな大善寺玉垂宮に関して徹底解説します。
【久留米の古社】大善寺玉垂宮とは?歴史・ご祭神・鬼夜祭まで完全解説
それでは、大善寺玉垂宮の歴史と現在を豊富な写真とともに見ていきましょう。
基本情報
- 社名:大善寺玉垂宮(だいぜんじ たまたれぐう)
- 所在地:福岡県久留米市大善寺町宮本1463-1→MAP
- 主祭神:玉垂命(たまたれのみこと)
- 例祭:1月7日「鬼夜(おによ)」
■ 玉垂宮の由緒とご祭神
主祭神は、
- 玉垂命(たまたれのみこと)
この「玉垂命」は『筑後国風土記』にも登場し、高良大社の主神・高良玉垂命と同一神とされることが多い神です。
古くから「武神・守護神」として信仰され、特に戦勝・五穀豊穣・厄除けの神として尊崇を集めてきました。
大善寺玉垂宮の創建は明確ではありませんが、少なくとも奈良時代以前から存在していたとされ、古代筑後の中心地・水沼県(みぬまのあがた)の氏神であったと考えられます。
■ 古代史の視点から見る玉垂宮
大善寺玉垂宮は、単なる一神社ではなく、筑後国の誕生や豪族支配構造を考える上で欠かせない史跡です。
- 水沼氏の政庁跡(大善寺町)
- 大善寺古墳群
- 高良山信仰との連関
これらが織りなすネットワークは、ヤマト政権と九州諸豪族の関係を示す貴重な痕跡です。
古代、筑紫地方には「筑紫君」「肥君」「豊君」「水沼君」といった地方豪族が連合していたとされ、その精神的支柱こそがこの玉垂宮であったのかもしれません。
■ 水沼君との関係
「水沼君(みぬまのきみ)」は、筑後地方を支配した有力豪族で、古代の筑紫国を構成した一氏族です。
玉垂宮は、この水沼氏の氏神として厚く信仰され、水沼氏の本拠・政庁跡(現在の大善寺町)の中心に鎮座していたと伝わります。
考古学的にも、大善寺一帯からは古墳群や古代の官衙跡が発見されており、この地が筑後国形成以前からの政治・文化の要衝であったことを示しています。
大善寺玉垂宮の目の前には、水沼君の古墳があります。
■ 高良大社との関係
玉垂宮の祭神・玉垂命は、高良大社(久留米市御井町)の主神・高良玉垂命と同神とされます。
古代には、高良大社が筑後全体の総社的存在となる以前、玉垂宮こそが筑後地方の中心的な神社であったとも考えられています。
一説には、
「高良の神、初め玉垂宮に鎮まり、のち御井に遷座した」
という伝承もあり、玉垂宮は“高良信仰の源流”ともいえる存在です。
高良大社は、もともと高樹神社であったところを山から追い出して玉垂宮を鎮座させたとも言われています。つまり、大善寺玉垂宮が高良玉垂宮に移動、その際に高樹神社を追い出したのかもしれません。
■ 玉垂宮の祭り ― 「鬼夜」
玉垂宮といえば、なんといっても「鬼夜(おによ)」です。
毎年1月7日に行われるこの祭りは、日本三大火祭りのひとつに数えられ、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
境内では、全長13メートル・重さ1.2トンにもなる巨大な松明(たいまつ)が6本焚かれ、炎が夜空を焦がす壮観な光景が広がります。
古代の「鬼=祖霊」「火=浄化」の信仰を今に伝える祭りであり、玉垂命が「鬼退治の神」として崇敬されたことに由来します。
■ 大善寺玉垂宮の歴史年表
時期 | 出来事・背景 |
---|
古墳時代(5世紀頃) | 水沼氏が筑後一帯を支配。大善寺地域が政庁所在地となる。 |
奈良時代(8世紀) | 玉垂宮の創建。水沼氏の氏神として祀られる。 |
平安時代 | 「高良玉垂命」が高良山へ遷座されたとの伝承が成立。 |
鎌倉時代 | 玉垂宮が地域の総鎮守として整備される。 |
江戸時代 | 「鬼夜」が藩主公認の行事となり、全国に名を広める。 |
現代 | 国指定重要無形民俗文化財「鬼夜」継承。参拝者多数。 |
現在の大善寺玉垂宮(写真)
次に、現在の大善寺玉垂宮の様子を写真で紹介します。
一の鳥居

二の鳥居

手水舎

本殿・拝殿


狛犬


賽銭箱(有馬家の家紋)

ご神木


境内の碑





まとめ
現代の久留米市の一角に静かに鎮まる大善寺玉垂宮。
その背後には古代筑後の政治・信仰・文化が凝縮された深い歴史が息づいています。
もし訪れるなら、日中の静謐な境内もいいですが、ぜひ「鬼夜」の炎が夜を焦がす瞬間を体感してみてください。千数百年前から続く“火の祈り”が、きっとあなたの心にも届くはずです。